日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎八幡さまにて

令和四年十月八日 狭山八幡にて

◎八幡さまにて

 大学四年の息子が企業から内定を貰ったということで、この日は通院日だったが、帰路に最寄りの八幡さまに参拝することにした。

 やや人事面に寄った話だから、こういう時には八幡さまが良いと思う。

 「東日本に住む者が今生の幸福を願う神社は八幡さまがよい」と霊媒のO先生が言っていたことを思い出したのだ。

 実際、我が家では、中央が天照大神、左が八幡さまだ。右はいつも通うトラの神社の神さまになっている。

 

 久々に参拝したわけだが、境内を眺めているうちに、気付いたことがあった。

 「まだあれこれ連れているようだ」

 六日に正体を出した者とは別に、どうやら沢山背後にいる感じがある。

 ま、順々に祓うか落とすことにする。

 そんなに重い気持ちにならぬのは、息子が就職することになり、肩の荷が少し軽くなったことによる。人事の面でも「お役御免」の日が近づいた。

 苦痛の多い肉体から離れ、自由になる日・なれる日も近い。

 

 帰宅して、夕食の支度を始めたが、カウンターの脇に人影が立った。

 灰色の影だけではなく、割とはっきりした人の姿が視界に入ったのだ。

 「あれあれ。いつものヤツとは違うぞ」

 顔を戻す度に、二度三度と姿を見せる。

 そこで気が付いた。

 「これだけはっきりしているなら、今日の八幡さまでも痕跡が出ている筈だ」

 この日の画像を点検してみることにした。 

 

 探すのは簡単だ。

 通常のとは違う「煙」や「光」に着目すればよい。雨の翌日だから、湿気が多いことにより煙が出るわけだが、自然現象であれば光の進行方向に沿っている。

 ルールに従わぬものの周囲を探れば、変化の要因が見付けやすくなる。

 画像を点検すると、たまたま神社の社務所の入り口のガラス戸に私が映っていた。

 そして、私の右後ろには、スーツを着た女の姿が割と分かりやすく映っている。

 ガラス映像は曇りガラスの向こう側を覗くようなものだから、コツが分かるまでは見えぬのだが、これは見分けられる人が多いと思う。

 膝丈のスカートの足元が鮮明に映っている。

 

 そして、相手との接点が生じると色んなことが分かるようになる。

 己の正体を晒すことは、自己紹介をするのと同じことだ。

 この女は六日にいつもの神社に参拝した折に、そこにいた者だ。帰路には「右肩が重くなった」のだが、これこの通り、右肩に乗っている。

 半ば私の肩に重なっているから、入り込もうとしていたのだろう。

 三十台で、あの神社に子どもを連れて七五三に来たことがあるか、あるいはそれを真似た姿を取っている。神社に参拝して来る人の「姿を真似る」ケースはよくあるが、周囲に馴染み、目立たなくするという意図によるようだ。

 悪縁の目的は生きた人に悪さをすることではなく、自我の存続のために人の心に同化し、同一化を図ることだ。死ぬと自我を再確認する手段がなくなるので、自然に滅びて行く。それを防ぐには、自分と似た他の自我と合体・同一化をすることで、そのことで自我が強化され存続が可能になる。悪縁・悪魔は悪さをするのが目的ではなく、「生き残り」を試みているということ。生きた人間にとっては、生き死にや人事の達成が大きなテーマなのだが、既に死んでいる者にはそんなのはどうでもよい。総て、もはや通り越したことに過ぎぬからだ。

 

 以前は、年間百五十日以上もお寺か神社に参拝参詣していたが、そうせざるを得ない心境だった。その頃は分からなかったが、これはいつも何十体と引き連れているから、時々下ろす必要があった、ということのようだ。だが、出掛ける度に、こんな風に新しいのを拾うので、まったく埒が明かない。

 

 六日の「蜘蛛の巣が頭にかかる」感触は、やはりこういうことだった。

 出先であれこれ拾ってしまうのは仕方がないが、それを具体的に目視確認出来るから、まだ対処のしようがある。

  出して見せられるのであれば、むげに否定することも出来まい。

 こういうことをブログやSNSに書くのは、同じ悩みを持つ人が幾らかいると思うからだが、そういう人は自分の悩みを口に出来ずに一人で苦しんでいると思う。

 母は毎夜、自分の枕元に現れる「誰かの影」に悩まされていたが、最後までそのことを口外しなかった。

 これを見る人の中にも五人程度が強く反応しているわけだが、この記録はそういう人のために残している。

 今日の教訓は、

 「必ずちょっとした体感があるから、それを見逃すな」

 ということだ。

 あとは、「相手は心の中に入り込もうとするから、よく自分本来の心を観察して、別の者を引き剥がすこと」ということになる。

 

追記)私は現実に自分の右肩に触感があるので、すぐにそれと分かるが、画像だけ見た人はぼんやりとしか見えぬのでこれが何か判別がつかぬと思う。

 ただ、この画像はかなり分かりやすい方だから、十人中三四人は「女が立っている」と認識出来ると思う。

 私が「既にあっち側の者」で「事故物件そのもの」だということもあるが、この手のことは実は誰の身にも同じように起きている。

 殆どの人はそれと認識出来ないだけ。

 自分に乗りかかっている者の存在を悟り、かつ分離できるようになると、「心の重さ」が取れ、前向きになれる。多少の病気なら自然治癒してしまう。

 

 最初は「背筋がざわざわする」程気色悪いのだが、回数を重ねると、いつしか慣れてしまい、殆ど平気になってしまう。人間はどんなことにも慣れてしまうものだ。