日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「貨幣と絵銭の話」(続)

◎古貨幣迷宮事件簿 「貨幣と絵銭の話」(続)

 家人がダンナの部屋のカーテンを洗濯したが、書籍を横倒しにした。

 その際、本の隙間から古銭がバラバラと出て来た。

 幾つか気の付いたことを記す。

 この場合、新たに撮影しなくてはならんので、数枚ずつになる。

◆弘治通寶 白銅銭(純白)

 中国銭には一定割合で白銅銭があり、珍しいものではない。開元なら普通に雑銭から出て来る。時代が下るが、永楽通寶にも散見されるが、こちらは鐚銭であることが多い。

 この品も概ね普通の金替わりだと思うが、白さが際立っており、厚径が薄いので、本銭系ではなく、鐚銭の金替わりもしれん。ま、中国鐚なら左程面白くもないが、和鋳鐚なら見どころがある。この場合、「見どころがある」というのは、その時代の鋳銭技術を観察出来る、という意味になる。

 寛永銭より前の話だから、中世くらいの鋳銭技術に通じるかもしれん。

 

 品物はこれ一枚だけだから言えることは少ない。

 輪側の状態を見ると、やはり明銭としてはかなり薄く、技術的に合わないと思う。

 いずれかの地による「写し」だと思う。

 鑢(線条痕)は主に横系統だが、ランダムな動かし方をしている。

 現時点で結論付けるのは早計過ぎると思うが、本邦で写された可能性もありそうだ。

 こういう時に参考になるのは、「どこからどういう状態で出たか」という情報だ。

 この品については記憶があり、鹿角の銭箱から出た一枚だった。この地方で百年くらい前には商人の手で放り込まれていた。この地方のウブ銭でこの手のがあるのかどうか。永楽の白銅写しは幾度か見たことがあるが、やはり薄手の見すぼらしい出来だった。

 うっかり銀だったりもするから、後で比重を確かめるつもりだが、薄手の製作で3グラムちょっとだから、ま、白銅だろうと思う。

 

寛永通寶 背横一文(横引)

 これは三十年以上前に雑銭から拾った品だ。

 銭種は含二水永だが、背郭の上に横に真っ直ぐ線が置かれている。

 こういうのは、偶然には絶対に出来ぬ性質のものだ。

 鋳造工程上、型場にたまたま木くずが落ちていることは無い。この場合、「少ない」でも「ほとんどない」でもなく、「ない」だ。

 鋳造の際には、そういうことを念入りに点検し、清掃した上で行う。

 実際に工場を見学に行けば、すぐ分かる。これが想像出来ぬのは、手の上の銭はかり見て、作るところを確認しようと思ったことが無いからだ。

 例えを挙げるなら、酒造工場には「納豆を食べた者は入室厳禁」だ。発酵が工程にあり、酵母を扱うから、別種の酵母を持ち込むと悪影響が出る。納豆など論外で、食べた者が戸口に立ったらドヤされる。

 魚屋の厨房に、外から靴のまま入ろうとしたら、親方に蹴り飛ばされる。厨房では、職人は必ず消毒した専用の長靴を履いている。

 錯笵は、母銭を取り落とすケースなら起こり得るが、田舎の密鋳銭ならともかく、筋が入ったりするのは公営銭座なら、意図的に入れたケースの方が多いと思う。

 あえて傷をつけたり、型を壊すのは、「邪を払う」意図による。

 もちろん、以上は原則論で、物事には常に例外はある。

 

 背の横引を拡大して見ると、途中に切れ目があり、何かを置いたのではなく、「笵に書いた」のではないかと思われる。

 となると、恐らく「まじない」的動機によるものだ。

 ま、どんな者でも、この長さ、この位置に、たまたま出来たとは考えない。考えるとすれば、「よっぽど」だ。

  だが、昨今のコレクターは、ネットで買い集めた品を、手の上でそれを眺め、読むのは古銭書とネット記事だけで、一切、足を使わない。もしかするといるかもしれん。

 机の上で考える「可能性」の議論ほど空しいものはない。岸田の話と同じくらい空しい。体験や実地検証を踏まえてものを言うべきだ。

 貨幣博物館に行くのも良いが、一度は鋳造工場で型場を見せて貰った方が良い。

 

 二十枚くらい見付かると、その途端に「希少銭種」に化ける筈だが、技術的にそういう事態は起こらない。この鋳造回(笵)だけに適用したものだ。

 何か願い事があったのだろう。

 

追記)古貨幣は「どこで入手したかの情報が重要」と言って来たのだが、中には「ドコソレコインで買ったから信用できる」「あの人から買った」みたいなことを言う人がいた。もちろん、そういう意味では全然ない(苦笑)。コレクターや業者の手に渡る前の話で、流通していた頃にどう使われていたか、どう仕舞われたかということだ。

 また、鑑定評価については、入手した時点で「当人の責任」になり、他の誰の責任でもない。たまに「あの人の品は」と言う人がいるが、自分に鑑定眼がないと公表するようなもので、みっともない。その時点で良いと思っているから買ったのに、何を言ってるのか。

 

 注記)エッセイとして一発撲り書きで記している。推敲や校正をしないため、不首尾は必ず混じる。そういう理解・解釈で読まれるのが無難だ。道楽の世界の「確からしさ」は自分で調べるものだと思う。今は基本的に古貨幣に関する興味がほぼゼロで、こういうのは暇潰し。病気で幾年かの間は暇すらなかったが、今年は幾らか改善された。