日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

(日高) 雨の日の参拝  (309)

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困難にぶつかった時に、それをどう受け止めるか。
考え方は概ね2通り。

「どうして自分だけがこんな目に遭うのか」
「生きていればこういうことも多々あるのだから、どうということもない」
受け止め方によっては、随分変わります。
最初の思考を突き詰めて行くと、生きて行くのが嫌になってしまいます。
ところが、同じ出来事なのに、見る角度を少し変えるだけで、印象はかなり変わります。

私には重い持病があり、従前は「1日あれば出来る」とみなしたことが、今は4、5日掛かります。
「1週間くらいで」はひと月以上掛かるし、「ひと月」は半年。
「前は出来たのに、今は出来ない」と思うと、ひたすら情けなく、明日まで生きているのも嫌になってしまいます。

ところが、こういう時の悪意と言うか厭世感は、心に「吹き込まれる」ものらしいです。
同じところで、考えがぐるぐる回っていると、こういうマイナス思考に行き着きます。

そういう時には、一旦、負の連鎖を断ち切ることが必要なようです。
人によっては、旅行をしたり、運動をすることがそれでしょう。
私の場合は、「とりあえず神社」になっています。
人が強く生きるためには、「いつも変わらず自分を受け入れてくれる場所」が必要であるらしい。
家族や故郷が重要なのは、そういう機能を果たしているからなのでしょう。

私の場合は、何らこだわりなく、複数の神社に行きます。
宗教は「人が作ったもの」、すなわち知恵や知識なので、宗旨の違いなどはどうでも良い話。
見るべきは人の振舞いではなく、彼岸を含めた視野での「あるべき姿」だろうと思います。

最近は、鳥居を潜っただけで、少し気持ちが楽になります。
目の前の問題はけして消えることがないのですが、「ま、現状を受け入れ、前に進むしかない」という考えに帰着します。

というわけで、今日も高麗神社に参拝しました。
神社猫のトラも、その親戚みたいな猫群もいませんでしたが、その代わりに、通称「エロオヤジ」の血縁みたいな茶色の猫がいました。
エロオヤジも、あれはあれで、きっちり命を繋いでいるわけですね。
あのエロオヤジは、トラに叩かれても叩かれても、へこたれずに言い寄っていましたが、あいつなりにしぶとく生きているようです。

追記)「持病」が「痔病」に文字化けしていました。患部はケツではありません(大笑)。