日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎日光ケッコー、とはいかず毛呂山へ

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◎日光ケッコー、とはいかず毛呂山
 月曜は家人の要請で、鬼怒川のワールドスクエアに行き、帰りに華厳の滝を見る予定だったのに、生憎の雨予想で、急遽中止になりました。
 家人は「それなら、近くの滝でいいよ」とのお達しです。
 となると、宿谷の滝のことですねえ。
 そこは霊場なので、ダンナにとっては微妙ですが、別にこだわりはありません。平気だと思うことが大切です。

 滝に着くと、やはり平日なので車は2台だけです。
 入り口を入ると、早速、家人は「写真を撮って」とせがみます。
 「なるべく痩せたのを選ぶ」目的で、5メートルごとに撮影させられるので、本当に閉口します。
 世のダンナさんたちも身に覚えがあると思います。
 いい加減にしてよね。

 すると、家人が唐突に「何だか声が聞こえる」と言い始めました。
 「そりゃそうだよ。ここじゃあ、当たり前だろ。霊場だもの。それにお前の後ろの先、40メートルくらいのところは人が近づいてはならない扉がある。聞こえるのは女の人の声だろ?」
 「そう。若い人」
 「30台くらいだな」
 「うん」
 「こういう時はさりげなくその場を立ち去らねばならない。理由は後で説明するから」
 もちろん、ダンナにはその女の声が鮮明に聞こえています。ここに来ると、いつも聞こえますので。
 そこで、直ちに滝に向かいました。

 久々の滝は涼しくて、気分が良かったです。
 小雨で水しぶきもあるのに、煙玉っぽいのも出ません。
 ああ良かった。変なのが出ると気分を壊します。

 これが午前中でしたので、まだだいぶ時間に余裕があります。そこから寄り道をしようにも、この辺では山向こうの鎌北湖くらいしかありません。
 周辺の産直は開いていないし、道の駅もなし。
 「じゃあそこにしよう。霊場めぐりみたいだけどね」
 
 鎌北湖は堤防を工事中で、そこを迂回した裏の方にしか行けません。水面は相変わらず藻が繁殖して緑色です。
 きれいに掃除をすれば、もう少し人が来るのに、この色ではさすがにボートを出す気にはならないかも。
 確か、特定の魚を放流すると、そいつが食ってくれたような気がするのですが。

 帰ってから、画像を開いてみると、宿谷の滝は無事でしたが、そのことで安心して気を抜いたらしく、鎌北湖でいつものアレが出ました。
 最近のでは、かなりキモい方だし、「気のせい」という言い逃れが効きません。影響がありそうなタイプなので、掲示は止めときます。
 このときはつい油断していたのですが、本当に何処にでもいます。
 普段のとは違う「濃い画像」は、相手の了解を貰った後でないと、見せることは出来ませんね。

 帰る途中で、家人に説明しました。
 「あそこで声が聞こえたのは、すぐ近くにあの世への扉があって、それが少し開いていたからだ。扉が開いていれば、うっかり入り込んでしまうこともありえる。目を瞑っている人には、扉の位置が分からないので、入り込む危険は少ない。気をつけるべきは扉に気付いた人で、声に誘われてうっかり中に入ってしまうと帰って来られなくなる。あるいは開いている扉から向こう側の者が出て来て、傍にいた人について来ることもあるんだよ」
 家人はまだはっきり分からないので「扉」としましたが、「落ちる」こともあるので、普段、私は「穴」と呼んでいます。

 こういう時の身の処し方を心得ていれば、突然の事故や事件、災害を免れることが出来たりします。
 山の近くに行けば、常に落石の危険がありますが、それが他人の上に落ちる確率は万に一つ。何かの力が働いて、「たまたま」頭の上に落ちてくることがないように計らうという意味です。

 声が聞こえた時点で、もはや「始まっている」ので、見ない振りや「気のせい」にするわけには行かないです。
 逆に、こういう、はっきりした声が伴わない霊視は、ただの妄想や想像です。
 自称「霊能者」や「自分には霊感がある」みたいなことを言う人は本当にダメです。
 「あの世」のことを全否定するエセ科学論者よりも始末が悪いです。
 私には霊能力みたいなものはありませんが、経験的にそれくらいは分かります。
 
 ま、最初、家人は「観光客が遠くで話しているのかと思った」と言っていました。でも、「途中ですれ違った男性の他に人はいなかっただろ」と言うと、初めてその時起きたことを不審に思ったとのこと。
 教えないほうが良いのかと思ったりしますが、しかし、災いはすぐ傍にあります。
 逆に、乗り切り方を心得れば、色んなことに応用できます。

 私が今、普通に立って歩いていることを、かつての担当医はきっと不思議に思うのですよ。
 「この人はもっと前に死んでいなくてはならないのに」
 しかし、やりくりはソコソコ可能なのです。
 好奇心から「あの世の気持ち悪いこと」を考えているのではなく、生きるために注意や努力を払っているのです。