日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎恐怖心が小さくなる

◎恐怖心が小さくなる
 「怖さ」を覚える原因は、「何か分からない」ことにあるらしい。
 いつも「誰かが自分を見ている」という感覚があったのですが、「自分のことではなく、玉を見ているのだ」と分かったので、ほとんど平気になりました。

 台所に立っている時に、カウンターの後ろや(女)、居間の中央に人の気配を感じたりすると(男)、すこぶる嫌だと思うのですが、「そんなもんだ」と思えるようになりました。
 ちなみに、それは今日のことですが、いつも起きていることでもあります。

 中1の時に、夜中に2階の自室で勉強をしていたら、国道の方から人が歩いて来る気配があり、私の部屋の真下で止まりました。
 その頃は、まだ姫神山の麓に修験道場があり、夜昼構わず、修験者が山を目指して歩いていることがあったので、それかとも思ったのです。
 しかし、その人は私の部屋の下から上を見上げて、じっとしていたので、すぐに怖くなりました。
 「何故部屋の中の自分が見えるのか」と思ったのです。
 そこで私は父のところに行こうとしたのですが、恐怖心から腰が抜けてしまい、廊下を四つん這いで行きました。
 後にも先にも、「腰が抜けた」のはその時だけです。

 父母の部屋に行き、父を揺すり起こして、「誰かが下にいる」と告げると、父はすぐに起きて、バットを持って外に行きました。
 それまでに、1、2度泥棒に入られたことがあるので、父は腹に据えかねる思いがあったのだろうと思います。
 しかし、やはり家の外には誰もいませんでした。
 父は戻って来ると、「誰もいない。夢を見たのだろ」と言い、また寝ました。
 でも、その時私は起きていたので、夢ではありません。

 あまりにもその「誰かが居る」という感覚がリアルだったので、「父が階段を下りる音がしたので、その男が逃げた」か「男はこの世の者ではない」のいずれかだろうと思っていました。
 結局、今にして真相が分かりました。
 たぶん、この世の者ではない修験者が「玉」を見つけて、それを見に来ていたわけです。
 前々から薄々とそう思っていたのですが、今は完全に確信します。

 深夜、当家の玄関の扉を叩く音も疑いなくこの類の音です。理由が分かったからと言って、無くなるわけではありませんが、今後は「得体の知れないもの」に対する恐怖は感じなくとも済むようになります。

 ちなみに、画像に「玉」(光り玉や煙玉)が写るのはいつものことで、記念写真の中にそれが混じると使えなくなってしまうので、私は被写体にはなるべくならないようにしていました。