日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「合金寛永について(P23の補足)」

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合金寛永の詳細

◎古貨幣迷宮事件簿 「合金寛永について(P23の補足)」

 合金と思しき「白銅寛永」について補足する。

 ポイントは次の通り。 

1)かなり以前、少なくとも三十年近く前から、全国の雑銭に混ぜられている。

 ネット等で出る雑銭に混ぜられていたり、古道具店に置いてある雑銭に混じっていたりした。

2)合金製、おそらくタングステン合金で、ほとんど錆びない(白いまま)。

3)多くは輪側にグラインダ加工を施しているが、さらに磨き布で擦り、線条痕を消してある品もある。

 

 私の経験では、関東出品の雑銭が最初で、後に全国の「一見、ウブ銭に見える」品にも混じるようになった。

 手法がアジア各地で売られた贋造円銀に似ているので、大陸由来ではないかと見ている。

 

 何故これが雑銭に混ぜられたかは、推定もしくは想像による。

 私見だが、恐らく反応を見るためだろう。

 雑銭からこれを見付けた者が何かしら反応する。「白銅の本物」と見るか、「作品」と見るかで、「何を見ているか」が分かる。

 本番はこの後で、売るべき品、売れる品を作るための情報として利用する。

 

 二十年前くらいに、西関東の街道沿いに古道具店を回って歩いたことがあるが、数店で、永楽銀銭の「かなり疑わしい品」が五~十枚も本物として店頭に置かれているのを目にした。  

 よく考えてみると、北陸には貨物船が入る。街道沿いに徐々に下って来ているということではないか。

 また、関東には空港があり、その近くにはコインを扱う隣国の業者(たぶん)がいる。これはそこに「積極的に売買する外国人がいる」ということだ。

 あくまで憶測なのだが、まずは「テストケース」と見て置いた方が良いと思う。

 本番は、もちろん、桁の違う別の品だ。

 

 銭の鋳造法は、日本と大陸では伝統的に違う手法を取っているが、これは日本式砂型だろうから、あるいは国内産かもしれぬ。

 五年ほど机に置いたままにしても、白銅に付きやすい黒錆がまったく出ぬから、溶けやすい金属製だ。おそらくはタングステン合金だろうと思う。

 温度調節が不慣れだと、湯温が高くなりすぎるので、製品にはス穴、鋳不足穴が出来やすい。

 

 当初、たまたま白銅銭を拾ったので、並べて置いていたのだが、片方は黒変したのに、もう片方の色は変わらなかった。

 期待をもって眺めると、ごく簡単な参考品でもよく見えてしまう。

 ま、バリ取りにグラインダを使っていたので、判別自体は容易だった。

 

 ちなみに、これと似た状況の品に「仰寶背山」鉄銭がある。

 地元では、明治期から「希少銭」と知られていたわけだが、繰り返し摸鋳銭が作られて来た。小笠原白雲居は昭和六年と十年、十六年に鉄銭の摸鋳を行っているが、この「背山」も作っている。この場合、密鋳背千鉄銭を鋳潰して作ったので、地金では分からない。もちろん、母銭も地元には残っていたから、見分けが付かない。

 戦前なら、鉄銭を「お金を出して買う」者はいなかったわけだが、作品自体は残っていた。白雲居だけでなく、複数の者がこれを作成したから、それなりの数が出来たことは想像に難くない。

 コインブーム以後に行われたことは、そんな「背山」を「ウブ鉄銭の山に投じる」ことだ。

 鉄銭は「十キロ幾ら」の評価にしかならぬが、「背山」の混じるウブ銭なら別だ。

 とりあえず買う者は幾らでも出る。

 「鉄雑銭から背山を拾った」ケースは、一人二人ではない。

 そして、今では「背山」というかつての希少銭には信用が無くなった。

 一時には、同時期に、複数のコイン店の店頭に置かれていたことがある。

 「どこから」と訊くと、「新しく出た」との答え。

 結果的にこの銭の経緯を知る者が「けして手を出さぬ銭種」になった。理由は「真贋の区別がつかない」からだ。

 

 ちなみに、白雲居が鉄銭を摸鋳した時に、背千を潰して作ったのだが、鋳造の結果残った鉄の重量は六割程度だったという話だ。

 鋳造法の研究が目的なら、一枚か数枚作るだけで済む話だった。自身で直接には売らずとも、仮に作品が残っていれば、後で「売れる」「売ろう」と考える者が出る。

 そして、それを現実に売った者は、総てを「作った人」のせいにする。

 要するに「作ってはダメ」ということ。研究目的で作ったら、極力、外には出さぬか、信頼のおける後進の勉強用だけにしておくべきだ。あるいは総ての情報を公に開示すれば良し。本物と見紛う者が無くなる。