◎「もうあっち側の人」日記
看護師のユキコさんに言われた「もうあっち側の人」が気に入ったので、あちこちでハンドルネームで使うことにした。
それを実感する出来事があったので、それを記す。
私はとっくの昔に「夏目漱石シンドローム」で、四六時中、「かやかや」と人の声がするし、目視でも光の歪みを見るようになっている。光の進行方向が揺れるのは、そこに眼に見えぬ何かがいるからだ。
こういうのは幾らか赤外線に反応する相手だから、気温の下がる夜間の方が見え易い。
何故「暗いところに出る」「夜中に出る」傾向があるのかということについては、合理的な説明がある。もちろん、夏よりも冬の方が認識しやすい。これも実態と合っている。
「夏目漱石シンドローム」の者が抱える問題は「区別がつき難い」ということだ。
具体例は昨日の出来事だ。
娘の帰りが遅く、九時くらいに駅まで迎えに行った。
帰路、車から降りて、家に向かおうとすると、電柱の陰に人が立っている。
照明のない電柱だから、暗がりの中。ほとんど見えぬが、微妙に景色が揺れるので、「そこにいる」と分かる。
この時、もはや私は「それが生きている人なのか、幽霊なのかの区別がつかなくなっている」。
同じように見えてしまう。
この時、つくづく「ああ。俺はもうあっち側の者だ」と痛感した。
ちなみに、面倒臭いから近くまで行って確認したが、そこに立っていたのは生きてる人だった。女性だ。
「まったく迷惑な話だ」と思った次第だが、よく考えると、その方が気持ちが悪い。
道路脇の電柱の陰に、道に背中を向けて女の人がただ立っている。
いったい、何をする人なのよ?
誰かからの連絡を、「携帯を見詰めて待っていた」くらいしか思い浮かばぬが、携帯ならガラケーで無いかぎり灯りが点く。
電柱の傍にある家の「誰か」へのストーキングをしているとか。
「生きている人間なら、それはそれで気色が悪い」と思った。
げにすさまじきはひとの心なり。
こういう場合だけは、幽霊よりも生きている人の方が気色悪い存在だ。
ひとはどんなことでも回数を重ねると慣れてしまう。
五年くらい前、ペットボトルが勝手に倒れたり(中身入り)、扉が勝手に開いたり、逆に開かなくなったりした時には、その都度肝を潰したものだが、今はあまり驚かない。
ちなみに、対処の仕方は、「そういうのはやめろよ。ここは俺の家の中だぞ」とはっきり言うだけでよい。
自他の区別や、誰の領域かの線引きをはっきりすれば、大体は従う。
逆の立場なら、「すいません。すぐに出ます」と謝るのが筋だ。
簡単なことだ。
夏目漱石は死ぬ半年前くらいから、「この世ならぬ人影」を見るようになった。
自宅ではなく、旅館で過ごす日が多くなったのはそのためだ。
だが、そこでも庭に佇んで、じっと自分を見る人の姿を見たので、度々、「あっちへ行け」と叫んで灰皿を投げつけた。
それが体の不調から生じるものなのか、あるいは現実にあの世の者が訪れるようになるのかは、当人的にはどうでもよい。目に映るのは同じものだからだ。
多くの事例では、これが始まると半年から一年内に死ぬ。
これに似ているのが、「その人をあの世に連れ去ろうとする者」、すなわち「お迎えが来る」ケースだ。初回のお迎えを免れた人の事例は割合あるが、やはり半年から一年後には死ぬ。
私は「お迎え」に会ったことがあり、夏目漱石シンドロームに苦しめられているが、もう五年以上生きている。レアなケースだが、目配り気配りを怠らぬことで避けられる要素があるようだ。
当事者的には、日々を切り抜けることで精一杯なので、それが何かなどはどうでもよい。車の構造を知らずとも運転は出来るし、「上手に運転する」ということの方が重要だ。いくら理屈をごねても事故を回避できぬのでは、何の意味もない。