日刊早坂ノボル新聞

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◎夏目漱石とエリサ・ラム

夏目漱石とエリサ・ラム
 自分自身の現状を眺めるのに、最も自分に近い状況だと感じるのは、夏目漱石とエリサ・ラムさんの最期の日々の記録だ。

 まずは夏目漱石から。

 漱石の周りで異変が起き始めたのは、漱石が亡くなる半年前くらいからのようだ。

 自宅の書斎で原稿を執筆しており、その書斎は縁側廊下を隔てて中庭に接していた。

 庭には庭石や灌木がしつらえてある。

 ある日、漱石はその灌木の陰に人が立っているのを発見した。

 青黒い顔をした男性で、ただじっと立って漱石を見ている。 

 「何故に他人の家にいる。お前は誰だ」と声を掛けると、庭木の陰にふっと消えた。

 その後も時々、庭に立ち、時々、漱石のことを見ていた。

 漱石は家に勝手に侵入した不審者だと思い、家の者に気を付けるように命じた。

だが、家の者にすれば、侵入者など有り得ぬ話だ。誰も本気では取り合わなかった。

 この「青黒い顔の男」が現れると、さすがに薄気味悪いので、漱石は咄嗟に怒鳴りつけた。

 「お前は誰だ!何故ここにいる!」

 漱石はそう叫ぶと、男のいる方に向かって灰皿を投げつけた。

 だが、幾ら警告しても、青黒い顔の男は相変わらず姿を見せる。

 仕事にならぬので、漱石は旅館に逗留して、そこで原稿を書くことにした。

 そこで書いていたのが、人間のエゴと苦悩を描いた『明暗』だった。

 だが、そこにも青黒い顔をした男が現れ、程なく漱石は亡くなった。

 不思議なことに、周囲では、漱石自身が目撃を語っていたこの男の存在を確認した者がいない。

 

 エリサ・ラム事件の方は、有名な米国のホテル変死事件だ。動画が公開されており、ラムさんの最期の奇行が記録に残っている。

 そちらを観た方が早いので、詳細な説明を控えるが、この事件は米国ロサンゼルスのセシルホテルでカナダ人のエリサ・ラムさんの遺体が発見された事件になる。ラムさんは屋上の貯水槽内で発見された。

 不可解なのは、エレベーター内のラムさんの様子だ。

 ラムさんは、何者かを怖れエレベーターに駆け込んで来て、外の様子を幾度も確認した。

 その後、外の誰かと会話をしていたが、急いで自分の部屋に向かうべく、ボタンを押した。

 ところがエレベーターが思うように動かない。ラムさんは何者かから逃れようとするかのように、全階のボタンを押したが固まったままだ。

 半狂乱になったラムさんだが、ようやくエレベーターが上昇を開始し、別の階で逃れ出た。

 次にラムさんが発見されたのは、屋上の貯水槽の中だった。そこは普通の人が入って行けぬような高さにあり、何故ラムさんがそこまで登り、ハッチを開けられたかがいまだに分らない。

 元々、ラムさんは心の病を抱えていたとされるが、この動画の状況を説明する要因には当たらない。

 何故なら心の病気は、エレベーターの誤作動を起こしうる原因にはならないからだ。

 ラムさんに起きた出来事は、ラムさんの内面の問題から発生したものではない。心神耗弱があったにせよ、そのことでエレベーターを動かぬようにはならない。原因は他にある。

 

 さて、漱石とエリサ・ラムさんには共通点がある。

 それは「はっきりした人影(当人にとっては人物)を目撃していたのに、当人以外はそれを認識出来ない」ところだ。二人が存在を認め、語り掛けているのに、他の者には一切目視出来ない。

 他の者にとっては、存在しない者が、二人の目には鮮明に見えていたのだ。

 また、後付けの見解だが、二人ともそれが起きたのは「死に間際」だった。

 

 殆ど同じようなことが私にも起きている。

 はっきりと「気のせいではない」と思うようになったのは、七八年くらい前のことで、分岐点は「お迎えに会った」ところになる。

 心臓の手術を受けた後、私はベッドに座っていたのだが、病室のドアが開き男二人が入って来た。

 二人は私のベッドの前に立ったが、いずれも薄気味悪い顔をしていた。

 普通の姿をした中年の男たちだったが、顔色が青黒く佇まいが尋常ではない。

 (後になり、気味の悪い原因が分かったが、男たちの周囲の景色が歪んでいたからだった。蜃気楼が揺らめくように空気が揺れていた。)

 男たちの顔を見た瞬間、咄嗟に「これはこの世の者ではない」と思い、私は「傍に来るな」と叫んだ。午後六時の夕食後まもなくの時間帯だから、私も周囲もしっかり覚醒していた。

 大勢が私の叫び声を聞いたはずだ。

 二人は私の方に近づき、たぶん、私を連れ去ろうとしたのだが、途中に眼に見えぬ壁があり、直前で手が止まった。私を掴めぬことが分かると、片方の男が「ち」のような舌打ちをして、再び病室から出て行った。

 

 このことがあってからは、日常的に「この世ならぬ者」を見るようになった。

 ガラス窓の中に人影を発見してからは、頻度が格段に高くなり、画像にも映るし、目視もするようになった。幾度も見ているうちに、見方を覚え、目の付け所に習熟して来た面もある。

 このため、断片的で不鮮明な一片の影でも、それが「あの世の者」の痕跡であると分かるようになった。

 もちろん、総てが明快なわけではない。文字通り、「霧の中を見通す」振る舞いなので、よく分からぬところの方が多い。だが、経験によりある程度推測出来るし、見極めること自体が目的ではない。

 「それが悪影響をもたらすものかどうか」を見極め、「事前に危機を回避する」ことが重要だ。

 いつも記す通り、あの世を観察するのは、好奇心からでも功名心からでもなく、無防備に「死の闇の中に堕ちる」のを回避するためだ。死んでもその先があることを承知しているので、死ぬこと自体は何とも思わず恐れも感じない。だが、その先にある「無限の闇」の中に訳も分からぬまま堕ちてしまうのは怖い。「気付いたらあの世に中にいた」時に、どのように振舞えば良いのだろうか。

 何も見通しが立たぬうちにその場に立たされるのは、さすがに怖ろしい。

 

そうなると、他の者に「あの世」がどう見えるかなどどうでもよい。いざ死ねば、あるいは棺桶に足を踏み入れた時点で、家族や友人などの繋がりなど、何の意味も無くなる。

 

 さて、漱石やラムさんにとっては、「目に見えぬ誰か」の存在は現実の一端で、かつ物理的な影響を及ぼす存在だった。私にとってもそうだ。

 ラムさんのエレベーターは操作しようとしても、まったく言うことを聞かぬ瞬間があった。

 この手のことは、時々、私にも起きる。

 今は少なくなったが、以前には「ドアが開かなくなる」現象が度々起きた。

 普段出入りしている扉が、鍵を回して錠を解除しても、まったく開かない。

 留め金が引っ掛かっている感触ではなく、扉全体が岩に貼り付いようにびくともしない。

 自宅の玄関やホテルの浴室の扉が開かなくなった。

 後者は内鍵で、浴室の中からでないと掛けられぬのに、何故か扉が開かない。中には人がいないのに、鍵を誰が回したのか。「鍵が少し斜めになっていたのでは」という理屈がつけられそうだが、その場合は事前に鍵に触れていなければならない。一人で泊まるのに、浴室の内鍵を賭ける者はいない。

 

 あの世の者は「人を選んで現れる」と言うが、あの世の存在を認識し、正視しようとする姿勢を持つ者には、実際のところ、好んで「しるし」を示す傾向があるようだ。 

 これは「こころ」が波のようにささめく振動で、人それぞれが「音叉のように反響する存在」であるからのようだ。

 音は「空気の振動」で、同じ規格(波長)の音叉であれば、いざ片方を鳴らすと、別のところにある音叉も鳴り出す。それと理屈は同じことだ。

 あの世の者の奏でる「心の音」に波長が合っている、もしくは合わせようと調整する者は、あの世の者の声とこころに触れやすい。

 霊感、第六感は、要は「共鳴」「共振」と同じことだ。

 「周波数の合わぬ音は伝わらない」し、「音叉が動かぬように故意に押さえつけ」れば、音や「こころ」は伝わらない。

 

 多くの者は「あの世の者」。要は幽霊たちの声を聞いたり、姿を見たりすることがほとんど出来ない。

 これは、その能力がないのではなく、「振動しないように押さえつけている」という側面が大きい。

 「瞼を閉じ、耳を塞ぐ」者には、何も見えぬし聞こえない。

 

 ここで冒頭の夏目漱石とエリサ・ラムさんの話に戻る。

 漱石とラムさんは、確実に「他の者には見えぬが、しかし、当人には現実に存在する誰か」の姿を見ていた。そして私にも同じことが起きている。

 この三者の共通点は、「死に間際が近くなった時に人影が鮮明になっている」ということしかない。

 漱石は持病の胃潰瘍が悪化していたし、私は心臓と腎臓に障害を持つ。ラムさんは精神障害を抱えていた。

 肉体は「自我の拠りどころ」で、あの世の者から「こころ」を守る壁になっている。

 心身の力が衰えている者の前に対しては、あの世の者が働き掛けやすい状況が生まれる。

 あの世の者が欲しているのは、「こころの同化と合体」だから、心身の弱る者の前には次から次へと幽霊が現れ、働き掛ける。

 

 掲示の画像は「あの世観察」を本格的に始めるようになった頃のもの。

 いずれも2019年の一年間に私自身が撮影したものだ。

 二枚目は冒頭の二人組で、神社の神殿の前で何気なく正面から撮影したのだ。その場にいたのは私一人だったのに、ガラスには別の人影が映っていた。

 ガラス扉の合わせ目で、姿が二重に映っているようだが、左右の人影の形が違う。

 はっきりと人の姿をしているので、「これが現実に起きたのか」が信じられずに、神社に幾度も足を運び検証を始めた。

 すると、その後はどんどんと撮影出来るようになった。

 「霧の中」の見通し方を覚えると、ちょっとした影だけでもそれと分かるようになる。 見ているうちに「声」が聞こえるようになるので、「共鳴」「共振」としか説明できない。

 

 追記)ちなみに、「死ねば終わり」「死後の存在はない」というのは、極めて非科学的、非合理的な「誤った科学信仰」だと思う。作業仮説的には「死後にも何らかの意識残存がある」で説明する方が正しいアプローチだ。

 その理由は簡単で、これらすべてを「気のせい」や「たまたま」では説明できないから。

 もちろん、いまだ未検証の段階だが、これが科学的見地に立つ見通しというものだ。

 これまでの宗教観や形式科学的見解は総て誤りで、あの世は本来の科学的アプローチを持って解明されるべきものだと思う。この世にはエセ科学者とニセ霊能者・宗教家ばかりが溢れている。