◎「気のせい」ではなかった
「今の自分に気のせいはない。ことあの世に関しては何かを見間違えるということもない」
そう気づいて、十日の八幡での画像を見直してみた。
まるで、手水場の柱に陽が差して、その照り返しで光っているように見えていた。
だが、よく見ると、手水場の右側の柱は稍左寄りにあり、土台もそこだ。
そうなると、さらにその右には、そもそも柱がないことになる。
考えられるのは、「室内の柱」か、「ガラス戸の合わせ目」で、ガラスが二重に重なっているかのいずれかということになる。内がっわにもう一枚扉があるから、そっちの方だ、
どちらの場合でも、いずれにせよ、「日光の照り返し」は起こりようがない話だ。
柱の位置から光が浮いているので不審に思ったわけだが、頭があるから、女のシルエットに見える。事実上、これは「女」だと思う。
何せ、この立ち位置では、既に複数回、「女」に抱き付かれたことがある。
私がここに立った時に、いち早くそれを知り、いそいそと寄って来たのだ。
「一体何を目指して寄り付くのか」という疑問の答えも、何となく見えている。
いつも私の頭の上には「でっかい女」がいることが多いのだが、やはりこの日も頭の上に煙が出ている。この位置は、手水場の板塀の前だから、背景の灌木が映り込むことはない。いわゆる「煙」だ。
まず間近には、やはり「女」が見下ろしており、加えてその上に「眼」のような形が見える。
これも幾度も経験があるが、これは「穴」の標識みたいなもののようだ。
「穴」は、この世とあの世(幽界)の結節点のようなものだが、多く幽霊が出入りする。
カメラのファインダもしくは私の喉元にも眼が開いているが、これも頻繁にある。
普段よりかなり不鮮明だが、いつも通りのものだと思う。
これは仮説だが、「女」は私の方に「穴」の所在を感じ取って、そっちに引き寄せられているのではないかと思う。
普通の人よりはるかに寄り憑きが多いのは、こういう理由があるためではないかと思う。これが「神霊体」ということなのか、あるいは、かつて心停止の経験があることと関係しているのかは分からない。
オレンジ色またはピンク色の「子どもの顔」に見える方は、まだよく分からない。
もし子どもなら、何か警告したいことがあり、それで怒っているような表情になっているのか。時々、笑って見える時もあるから、悪意ではないと思う。
何か「生活態度を改めよ」と伝えているのかもしれんが、それならいまだに改めるべき点は山ほどある。ま、示唆があるのなら、こちらに伝わるまで繰り返し現れると思う。