日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「九月期盆回しについて(ロ)」

◎古貨幣迷宮事件簿 「九月期盆回しについて(ロ)」

 作業的なことに着手すると、自分が「死に掛けの障害者」であることを思い知らされる。この数年のように、今月来月でこの世を去るだろうという感覚は薄れたが、しかし、常人の1/5程度のことしか出来なくなっている。ま、生きていられるだけ有難いのは確かで、これもワラシさまに会ったご利益だ。他に理由がないから断言できる。

 ま、出来るようにしかやれぬので、チンタラでも前に進めることにした。

S10 絵銭20枚組

 サービス提供なので、値段にはこだわらないが、雑銭の会関係者が優先される。

 絵銭、面子銭などバラエティがある。

S11 絵銭2枚

 明治以降の品だが、絵柄が面白い。念仏の型自体は江戸期からあると思う。

 調整用。

 

 S12~14は近代貨だが、二年前に検討したもの。

 基本的に型分類はやらぬのだが、明治初期のプレス貨幣には、「型分類」と「製造工程」の関心が合致する点がある。  

 それは「打極のために、どれくらいの枚数の極印を使ったのか」という疑問だ。

 かなり前だが、造幣局を訪れた際に、案内係の人に次の質問をした。

 「一つの極印でどれくらいの枚数が打てるものなのか?」

 すると、職員の回答は「一概には言えない」だった。

 ま、それもその筈で、いつ極印が割れるかなどは予測できるものではない。

 鋳造貨幣でも、焼き固めて作る銭笵の場合、これが割れるまで繰り返し使うことになるが、1度で壊れることもあるし、十回くらい使えることもある。「大体何枚くらい」とは言い難い。

 打極であれば、それなりの回数が使えそうだが、仮にひとつの極印で1千回打極出来るとすると、100万枚の貨幣を作るには「1千枚の極印」を必要とする。

 そうなると、極印のつくり方によっては、型にバラエティが生じる。これが「手替わり」の出来る要因だ。

 

 実演するところを見たことは無いが、プレス貨幣の場合、最初の原型を大きく彫り、これを元に「縮小彫り」を重ねることで、次第に小さくする手法を取る。

 最近、造幣局のウェブサイトを見て驚かされたのは、最初から小さめの極印原型を掘って置き、これをパンタグラフ式の縮小彫りで汎用極印とするようだ。

 昔の極印原型として展示されているものは、ひと抱えもあるサイズで、これを何段階か縮小彫りをすることで小型化すると説明されていた。

 昔はパンタグラフ式の彫機の精度が低く、鮮明に意匠が出なかったから、手間を要したのだろう。

 

 造幣局の資料では、「フランス製パンタグラフ式縮小彫機」を導入したのは、明治37年頃と記されている。だが、それ以前にも縮小彫りは行われていた筈で、大量に製造できる専用機の導入がなされたのがその年ということなのだろう。

 もちろん、製造工程論者は、そういう推測で話を終えることは無い。ここまではただの「お話」で実証めいた部分が何ひとつない。

 「極印をいくつ使った(作った)か」、「どうやって作ったか」は、最終完成物のバラエティを見れば、一定の推測が出来る。

 これが2年前の観点だった。

S12 旭日龍五十銭銀貨 M4年の文字型分類 

 デジタルマイクロスコープを使用し、同じ規格で、個別の文字の画像撮影し、違いを見た。現段階では、それが当初(極印)からある変異か、製造後に生じた変異かの区別が明確ではないが、歴然とした相違を持つ文字を抽出し観察した。

 ここで驚かされたのは、「想像以上に変化がある」ということだ。

 サンプル数は僅か7つなのに、A群(1、3)およびB群(2、4、7)というの完全に独立した2群が存在していた。さらに、B群から派生したようなもうひとつの群(5、6)が見られたが、これは今のところまだ「確たる相違かどうか」を判断出来ない。

 かたや図Aのように、極印割れによるエラーも散見される。

 

S13 旭日龍二十銭銀貨 M3年

 まったく同じ手法で、二十銭M3年7枚を観察してみた。

 こちらは、サンプル7枚だったが、明らかに型の異なるA群(1)とB群(それ以外)に分けられた。

S14 旭日龍二十銭銀貨 M4年

 同じ手法で二十銭のM四年6枚を見ると、決定的に型が異なるのは2つの群で、A群(1)とB群(2、4、6)に分けられ、次にA群の変化したC(またはA’)群の祖ℤん在が確認出来た。

 1千サンプルほどを調べてみると、概要が推定可能になるが、現段階では「かなりの違いがある」としか言えることは無い。だが、はっきりした相違である。意図的に加えねば生じる筈のない変異であるからだ。

 

 ここからはあくまで所感だ。

 おそらくだが、明治初期のプレス貨幣は、多くの部分を手で作った。「型が分かれるのは、各々を別の手が作った」ことを指す。

 明治三十年代の貨幣であれば、枚数を集めるのは容易だから、幾らか調べてみたが、明治3、4年のような型の違いは無い。いずれかの時期に、装置の取り換えが行われたという意味だ。

 製造過程論者の場合、そういう観点を見付けると、血が騒ぐ。

 何故、どうして変化が生まれるのか?

 これが分類思考だと、型の違いの方にばかり目が行き、それが多い少ないという話に落ち着く。そんなのは面白くも何ともない、と最後は毒を吐いて置く。

 近代プレス貨幣なら、工法は大して変わりないと思っていたが、装置の選択により、状況がまるで変わる。その意味では、分類とか状態評価の他に、やれることは多々あるように思う。

 

 ちなみに、盆回しは早い者勝ちで、オークションや入札とは逆の思考が必要だ。

 既に引退したので、値段にはこだわっていないが、姿勢にはこだわる。