日刊早坂ノボル新聞

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◎夢の話 第1146夜 お前はどっち

夢の話 第1146夜 お前はどっち
 9月1日の午前2時に観た夢です。

 我に返ると、岩石砂漠に立っていた。
 周りは荒涼とした岩と砂の世界だ。
 「ここには幾度も来たことがあるな」
 後ろを振り返ると、大きな岩があり、その中央にぽっかりと黒い穴が口を開けていた。
 「やはり俺はここから出て来たんだな」
 あのトンネルの中にいる間は、まだこの世のうちで、心停止する直前かその直後だ。
 トンネルを出ると、この世とあの世の中間域になる。

 「さて、どうすっかな」
 自分が死んでいるのか、ただの夢なのかは分からぬが、じっとしていても仕方がない。先に進んでみるが、幾度か行ったことがあるから、何があるかは概ね分かる。
 「この先には道分かれがある。右に進むと三途の川で、左が死出の山路だ」
 もちろんだが、具象物の川や山が実際にあるわけではない。
 生きている時には、外界の中に自分がいるが、死後には当人の持つイメージが外界になる。主観的な要因で外界が構成されるようになる。
 日本人の多くが死ぬと三途の川を渡るわけだが、異文化圏ではそうではない。各々が自分の思い描いた世界に進む。
 このため、「かたち」にはあまり意味は無い。それを見る己(主体)の心象が重要だ。心が世界を作っているからだ。

 昔のひとはよく「死ぬと、まず閻魔大王に会い、生前の悪事を追及される」と考えた。この閻魔大王も主観的表象だから、そういう存在が現実にいるわけではない。だが、「記憶の戸棚」に仕舞われていた生前の記憶は全部開けられて外に飛び出る。
 人は生れ落ちてから死ぬまでの一分一秒の記憶を全部持っているが、戸棚が無くなり、記憶が噴出する。
 要するに「閻魔大王」は自分自身と言えなくもない。 

 記憶の総てをさらけ出した後、それを元に外界が構成される。
 悪意に満ち、他者を蔑ろにしてきた者は、そう言う者ばかりのいる世界に行く。生前のこだわりによって、悪意に満ちた世界が出来るのだ。

 比較的穏やかな人生を歩んだ者は、多く三途の川を渡る。
 「川」は象徴で、総ての執着を捨て、洗い流してしまう場所を表わしたものだ。
 このため、川の中を覗いて見ると、金銀財宝や洋服、家族の写真などが沈んでいる。生前に執着した対象を捨てることで、自我を解放することが出来る。
 川を渡ると、対岸には葦が生えており、その先には草原がある。欧米では、この「草原」を見る者が多いそうだ。
 草原を進み、丘を登ると、そこで空中に引き上げられる。
 その段階で「自我」のまとまりが分解し、断片的な感情の記憶になって散らばる。かつて個人だった意識(自我・自意識)は雲散霧消してしまう。
 この意味では、天国は「無い」とも言えるし「ある」とも言える。あると言っても、人の姿をした「霊」が集まって社会を構成しているわけではない。その時には「個」はない。
 成仏は「自我が無くなること」を指す。「肉体の死」の次には、「自我の消滅」が待っている。これは二番目の死と言っても良い。

 ここまでは幾度も来たから知っている。もちろん、皮を渡ったことは無い。渡れば、もはや二度と戻っては来られない。。
 草原の先の丘で、人が光になり天井に吸い込まれて行くのを遠くから眺めただけだ。
 
 道別れの左の方には、かなり先まで進んだことがある。
 岩と砂利だらけの中、細い道を辿って行くと、峠に差し掛かる。ここには木々がうっそうと茂った森がある。
 進めば進むほど暗くなり、先が見えなくなる。
 頂上付近では、何か別の存在を感じる。獣のような声が聞こえたり、何かが動く物音がする。
 その総てが、俺と同じように、そっちに進んで行こうとする死者で鳥獣ではないが、この段階では存在を確認することが出来ない。 

 峠を越え、さらに進むと、暗闇が薄暮に変わる。
 次第に建物など人間の世界にあった人工物が現れるが、いずれも見たことがある。だが記憶のままではなく、どこかデフォルメされている。
 ここで「ああ。これは俺の記憶を元に創り出されたイメージだ」と気付く。
 俺の場合は、大学に入学する頃まで住んでいた個人商店が必ず現れる。店は古びており、中には何もないが、現実のそれをイメージしたためだ。

 「俺はたぶん、まだ死んでいない。だからここはあの世ではなく異世界だ。面倒臭いことに、俺だけの心象で作られるだけでなく、他者の意識も混じり込んで来る。ここには死者も混在しているからな」
 ここにいる死者は、生前の執着を抱えたままでいるから、必然的に醜くなる。「こだわり」は「欲」と繋がりが深く、否定的な感情の方が馴染むからだ。
 生きている者が「異世界」に入り込んだ話を聞くことがあるわけだが、その多くは妄想だ。だが、一部には妄想に留まらないケースもある。しかし、困ったことに、そこに現れる物事は「妄想(執着心)」で出来ている。区別がつかない。
 心象がかたちになって現れるところだから、憎悪や恨みの念を持つ者は、それを体現した姿になる。
 鬼や妖怪、化け物は実際に存在しているが、それは「死出の山路」の先にいる。

 死んでここに入れば「あの世(幽界)」で、生きたまま迷い込めば「異世界」だが、双方は同じ心象世界だ。
 憎しみや執着心を捨てれば、峠道に気付き、川を渡ることが出来る。だが、自我を成り立たせている要因が負の感情になっているから、それを捨て去るのは難しい。
 「この世界と現実世界は重なって存在しているから、世界には幽霊が満ち溢れることになる」
 あの世が「主観的心象によって形成される」という原理が分かれば、どう生きるべきか、どう死ぬべきか、死んだらどう振舞うべきかは自明だ。

 ここで俺は自問した。
 「さて俺よ。お前は幾度もここに来たが、そろそろ本番が迫っている。その時、お前は左右どっちに進むのか」
 右に進み、川の辺でそれまで抱えて来たものを放り捨てれば、向こう岸に渡れる。穏やかだが「俺」は消えてしまう。
 左に進むと、悪人や魑魅魍魎の巣くう醜い世界だ。俺はその世界の本質を知っているから、たぶん、幾人かを拾い、川向うに送ることが出来る。
 「さあ、お前はどうする?」
 ここで覚醒。

 当方は、とりあえず母をマチュピチュに連れて行こうと思う。
 きっと母は川を渡らずに息子の来るのを待っている。