◎『鬼灯の城』の再開について
この作品は、新聞紙上での連載が95%のところまでで止まった。体調が悪化して執筆出来なくなったのが主要因だが、それに加えて、あまりに陰惨な内容であることに辟易したことによる。
元々この作品は『九戸戦始末記』のサイドストーリーとして考案したものだ。
九戸一揆は別サイドから見るとどう見えたか。
北奥侍や上方侍、各々の思惑はどのようなものだったか。
これを考えるのが目的だ。
天正19年の9月に二戸宮野(九戸)城が陥落。
城内にいた五千人は総て殲滅。首謀者の九戸政実らは大崎三迫にて、羽柴秀次、伊達政宗の前で斬首された。
この後、北奥軍の頭領である南部信直は、休む間もなく釜沢館を攻め、城主小笠原重清を滅した。
同様の作戦は数か月続き、北奥の不参地侍は総て滅ぼされた。
一方、上方軍の蒲生氏郷は、戦後も宮野に駐留し、宮野城の改修に努め、これが完成すると、城を南部信直に引き渡した。
不審点が幾つかあり、
1)小笠原重清らは、中立を宣言していたのに、何故滅ぼしたか。
2)蒲生氏郷は九戸平定後も半年以上に渡り、北奥に軍を置いたが、これは何故か、などが謎となっている。
ここからは推測だが、南部信直が領内で残虐な殺戮を継続したのは、おそらく「そうしないとお前を殺す」と上方侍に言われたからだと思われる。
羽柴秀吉からは「従わぬ者はなで斬りに」せよという令が出ていたから、浅野長𠮷あたりにキツく言われた。
蒲生氏郷は北奥の情勢を監視するために、当地に留まったが、軍隊を駐留させておくのに、何もさせずにいると規律が緩むので城の改修を命じた。もし北奥で再度反乱が起きれば、次は自分の首が飛ぶ。
氏郷は有能な侍なので、滅多なことでは排斥出来ぬが、理由付けがあれば話は別で、秀吉は氏郷の室である冬姫に執着していたから尚更だ。冬姫は織田信長の娘で、秀吉の欲望の対象だった。
多くの人が抱いている秀吉像よりも、本物ははるかにクズ野郎だった。
さて、自身の記録を見ると、概ね四年近く前に連載が止まったらしい。
思い当たることは幾つかある。
もっとも大きな要因が「稲荷の障り」だ。
私は元々、稲荷神社とは相性が悪く、境内に立ち入っただけで具合が悪くなる。
この時には、それと知らずに、境内に深く立ち入り、祠の前に立ってしまった。
その後、体調が悪くなり、八か月間苦しんだが、その間体重が12キロほど減った。
同時進行的にブログにも記したが、スマホが「憑いた。憑いたぞ」と叫び出すほどだった。
俄かには信じられぬ事態だが、現実に起きた。
既に障害者なので、病状は一進一退で、椅子に座っていられるのは今も40分だけだ。
だが、やはり生きている限りは、常に再起を志すべきだと思う。
今年の一月に、偶然、「座敷童」らしき子どもの幽霊を撮影したが、それ以後は「しばらくは死なない」と思うようになった。周知のとおり、座敷童は福神で、ひとに幸運をもたらす。
人間にとっての幸運とは、長命、健康、家内安全で、その次が富貴だ。
幾らか死期を伸ばして貰えるなら、やはり現実に足跡を記すべきだと思うに至った。
『鬼灯の城』の結末は既に準備してあったのだが、今回、それを破棄し、新たに書き直すことにした。
絶望だけの物語に終わらせるべきではないと思うからだ。
まず、ウェブサイトに過去の13章を全掲載し、その後で14章と後日談を添付しようと思う。
新聞連載時には細切れで読み難かったはずだが、これで通読が可能になる。
一人の読者のつもりで読み直したが、「釜沢淡州」の事績を少しでも知る者であれば、シビレると思う。書いた本人が読んで、冒頭からシビれている。
掲載は順次『北奥三国物語』HPの『鬼灯の城』に行っていく。
盛岡タイムスは死なず。私が理念と魂を引き継ぐ。北奥三国物語 鬼灯の城