◎霊界通信 R061120 あの世(幽界)との接点
「幽界」は「自我を保持する霊」のいるところで、生者から見ると朧気で幽かな世界だからこう呼ぶ。
死んでそこに入れば「幽界」で、生きながら入ると「異世界」だ。
五感を持たぬので、こころで外界を眺めるから、幽霊たちが見ているのは心の波動でありイメージだ。
その最大の特質は、思い描いたものが現実として現れること。
悪心を抱えたままなら悪顔になる。ま、これは生きている者(生者)も同じだが、生者は内心を外見で隠すことが出来る。幽霊は外殻(肉体)を持たぬから、心の状態がそのまま外見になる。
今年一月の「お稚児さま」画像は、幽界を観察するのによいテキストだ。
繰り返し見ているが、その都度発見がある。今回はこれを順次見ていくことにする。
1)遠景
私が撮影した元画像がこれ。既に「光源と影の関係を観察する」習慣が出来ているので、私はすぐに異変に気付いた。
この場には、私の背後から日光、正面には室内の照明があり、その各々が直進して事物の姿を浮かび上がらせる。この時、中間に「何か」がいると、光の進行を妨げる。これで異変に気付く。
この時点で私の隣に人影が立っているのが分かる。
2)基盤情報(1の拡大)
前図を少し拡大し、これを基盤として点検する。
いつも例える通り、幽霊は「プレデター(映画の)」と同様に、景色の中に溶け込んでいることが多い。
最初に「見えるからいる」「見えぬからいない」と言う考え方を捨てる必要がある。
この画像で重要なのは、私の周囲の煙だ。水蒸気に光が反射して煙に見える時があるが、一月であることと、光源が室内なのでそれではない。
以下、私が気付いた順番に記述する。
3)振袖の少女
最初に目に付くのは、私の左に立つ振袖を着た少女だ。胸に前掛けのようなものを着けている(名称失念)。体格年齢は六歳から八歳に見える。顔が怖いがこれは心境だろう。
一人に見えるが集合霊で、中にはもう一人の女性の姿が見える。
本体の外見は少女なのだが、私は少女ではないと思う。この者の自我が少女で、たぶん、その頃の自分でいたい気持ちがあるからその姿になった。
私の自意識は三十二歳で停まっているから、死んで幽霊になると、たぶん、その頃の姿になると思う。
幾年か前に、島紬の着物を着た女性の夢に悩まされたことがあるが、半年以上も毎晩その女性が夢に出て、恨み言を語った。この少女はそれに関係していると思う。あるいはあの悪霊そのものかもしれん。
4)お稚児さま(座敷童)
4-1)女児
私の右には、ベンチに両膝を掛けた四歳前後の女児がいる。最初の画像では、殆どの人が少女の存在に気付かぬと思う。丸印を示して初めてそれと分かる人もいる。
あどけない表情で、見る側の心が穏やかになるから、悪霊ではない。
同じ場所で撮影した六年前の画像にも、おそらく同じ女児だと思しき子どもの姿がある。
それなら「この旅館に住む座敷童か」と飛びつきたくなるが、どうやら別の場所で撮影した画像にも子どもらしき姿が入っているようだ。場所を替えても私の傍にいるなら、「私と一緒に居る」子どもだということだ。ま、既に受け入れているので、解釈はどちらでも構わない。
生前も死後にも行動を共にしようと思う。父の要望に似ているから、あるいは祖母なのかもしれん。
この旅館に行くと、時々、「かやかや」という話し声が聞こえる。この年齢の女児にはおしゃまな子がいて、あれやこれやと大人に話し掛けるが、そんな感じに聞こえる。
私だけでなく、家人にも聞こえるそうなので、そら耳ではないと思う。
5)白い着物の女
5-1)白い着物の女
これが「白い着物を着た女」だとすぐに認識出来るのは、過去にも見たことがあるから。
平成二十六年に同じ場所で撮影した画像に同じ女性が立っている。
なんてこった。改めてこちらの画像を詳細に見ると、女性の前には子どもがいる。
それなら、八幡神社で時々見る母子だろうと思う。これは正真正銘、私に関わる者だと思う。
私は「悪意が無く悪さをしない」者であれば、慰めこそすれ、祓うことはしないことにしている。
服装から見て、「棺桶に入れられた時にはまだ息があった」のではないかと思っていたが、何か事情があったようだ。
6)しがみ付く女性
かたちとしては不鮮明だが、複数の顔を持つ女が背後から抱き付いていると感じる。
人間は毎分毎秒の記憶を正確に記憶しているが、収納箪笥に仕舞い込んでいるから普段は思い出せない。だが、コツを覚えると開けられ、とりわけそれがあの世に関連したものは、感覚や感情を共有する面があり、取り出しやすくなる。
「女性に抱き付かれている」と感じるのは、抱き付いている側の女性の意識を感じ取るからだ。
私に多くの幽霊が寄り憑くのは、ハープのように色んな波長の音を持ち、併せやすいからだろうと思う。これは私が心停止を経験したことや、お迎えに会ったことがあることとは無縁ではないと思う。
6-イ)とりすがる女性
前項の「顔が複数ある」ように見えたのは、複合霊ではなく、「複数が重なっていたから」のようだ。
「国防頭巾を被った」と記したが、見た目ではなく「防空頭巾を被っているという意識がある」という意味になる。
以下は考察。
あの世の者との情報交換は、専ら「共感」で、言葉ではない。感情の波が似ているから、音叉のように共鳴し、同じ感情を共有するようになる。ただし、論理的思考ではなく、あくまで感情なので、事実関係などはほとんど分らぬままだ。
私の左腕は、肘までの角度と二の腕の角度が明らかに食い違っている。幽霊は波の性質を持つが、光の波も干渉するので、画像が歪む。腕を捻じ曲げるほどの影響力を持つのは、背後から抱きすくめる女性ではなく、この防空頭巾の女性だと思う。
当人の私でも説明がつかないのだが、ガラス戸の前に立ち、カメラを向けた瞬間、「あれ?誰かがこっちを見ている」と感じる。もちろん、いつもではないが、この場所では、そこに居ない人の声が聞こえたり、「見られ感」を感じる。その周辺(やもしくは私の周り)に幽霊がいることが前提だが、これに加えて日光の角度や室内照明との兼ね合いなどで、美味く撮影に適した条件になるのだろうと思う。
お稚児さまはベンチの上に乗っているが、このベンチは玄関前のどこを探しても存在しない。確認のため改めて現地を見に行ったほどだ。この人影がいるところは、この場所と重なってはいるが、まったく別の世界なのだろう。