日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎必ず金を隠している

必ず金を隠している
 大谷選手が賭博に関わっていないことは、バクチ打ちの目線からすれば自明なのだが、米国メディアなどは何とかそれ(大谷主犯説)を引き出したくて騒いでいた。
 バクチは「金を儲ける」ためにすることで、大谷選手の場合はその必要がないし、そもそもグラウンドがバクチ場だ。怪我をして働けなくなれば、高年棒でもあり即引退だ。毎年百億規模のバクチを打っている。

 水原氏は2019年というかなり早い段階から、大谷口座からの引き出しを試みているから、最初から算段づくだ。
 「払いは大谷口座、アガリは自分の口座」なら、調べればすぐに分かる。ならこれも算段づくで、こういう人は必ず金を隠している。いずれ捕まることは織り込み済みで、早々に「病気」を口にしている。米国だと、病気だと不可避な事態と見なされ、無罪になったりする。
 日本で車を暴走させ、二人を殺した米兵が重過失で服役していたのに、「病気」を理由に本国送還されたことがあった。事実上、無罪放免になった。
 最初の段階から、「いずれ露見し逮捕される」と見込んでいたのなら、「二十億を支払いに充て、十数億は自分の口座に入った」とすると、そのうち何億かは隠してある。
 いずれ服役し、それが終わって出て来た時に利用するためだ。

 米国だと金融犯罪は割合重罪で、インサイダー取引でも二十年くらいの刑期になる。水原氏も詐欺罪なら二十年くらいだと思うが、「病気」を盾にとって「数年で出る」「無罪」を目論んでいると思う。違法賭博は「隠れ蓑」ということ。博打の勝ち負けは関係なく、大谷口座から金を引き出すこととともに、刑を軽くすることが目的だ。勝ち負けはどうでもよく、「病気」を口実にする。
 たぶん、五億くらいは証拠が残らぬかたちで隠している。

 話は違うが、仕事の相手もしくは仲間にする時、複数の選択肢があれば、「妻子を大切にするひと」「顔を隠さぬひと」を選べという格言があるが、水原氏も髪で額を隠していた。
 心のうちが行動に現れるという意味では当たっている面が多い。

 ちなみに、水原事件は、基本的に大谷選手のミスだと思う。
 代理人他二重三重のチェックを入れる体制にするのが普通で、そこはやっぱり野球バカで気が回らない。
 時々、著名人が秘書などに金を搾取されて、「信じていたのに裏切られた」と言ったりするが、自分が怠惰だからそうなったと思う。
 ま、大谷選手ならちょっとCM契約をすれば、二十億くらいはすぐに手に入るわけだが。

◎霊界通信 「報い」の二面性

◎理解通信 「報い」の二面性
 今、私の机の横には、視線を上げると必ず目に入るように①の写真を貼ってある。
 今は五年くらい続いた危機(もしくは「人生の底」)を脱し、あらゆる意味で状況が好転しつつあるが、このきっかけが、小鹿野町でこの子たちの姿を確認したことだった。
 この画像①には、左右に女児が一人ずつ立っている。
 左側は「苦痛や怨恨」のような負の感情を感じるし、右側は逆に「無垢やあどけなさ」を感じる。とりわけ右側は、いわゆるこれまで「座敷童」として知られて来た者と同一だと思う。

 決まった呼び方(名前)がないと何かと不都合なので、とりあえず、左を「ゆかり」、右を「のぞみ」と呼ぶことにした。
 毎日この画像を見て考えているわけだが、女児たちは二人で一組だと思う。
 この子たちは、たぶん、「報い」を表わしている。
 「報い」にはプラスマイナス両方の側面があり、簡単に言えば「善意には善意」、「悪意には悪意」が返って来るという決まりのことを指す。
 一方向に力が加われば、まったく逆の方向に力が跳ね返る。それと同じことだ。質は違えど、物理法則と同じ意味になる。


 あの世(幽界)の構成を考える上で、この二面性はどのように作用するのか。そう考えた時に、「巫女さま」と「でっかい女」のことが頭に浮かんだ。
 「巫女さま」「でっかい女」(仮称)は、いずれも2019(平成31/令和元)年頃から姿を現した。
 「巫女さま」の方は白い着物(たぶん巫女着)を着ており、「でっかい女」の方は概ね暗い色の服を身に着けている。
 服装は幾らか違うが、髪型や顔つきがよく似ている。
 二人は各々「別の者」のようにも見えるが、まるで姉妹のように佇まいが似ている。
 ハードディスクが破損し、未公開のものを含め大半の画像が確認出来なくなったので限界があるが、可能な限りこれまでの記録を辿ってみることにした。

 手元の画像では、2019(平成31)年の小鹿野町で、女性の眼が洗われたのが最初で、これが「巫女さま」の眼だ。この同じ画像の右下に、今年一月に現れた女児(のぞみ)が映り込んでいる。
 なお、この子がこの画像にいたのは、数か月前に初めて気が付いた。
 状況的には、「巫女さま」と「のぞみ」ちゃんは同じ一派なのではないかと思う。
 その後、「巫女さま」については度々、姿を現したが(画像②~⑤)、いずれも悪縁が現れるのと同時かその直後で、まるで私を支えているかのような構図となっている。ここは推測でしかないが、「危機を悟り、庇っていた」のではないかと感じる。
 「巫女さま」の顔が写った画像もあったのだが、データが壊れてしまった。


 一方、「でっかい女」は、概ねシルエットだけのことが多く、鮮明な画像が少ない上に、大半が消失した。
 割合かたちが残っているのが⑥で、神殿前で手を合わせる参拝客女性の耳元で、何事かを囁いている。頭の大きさ、髪型、顔つきから見て、「でっかい女」だと思う。
 今回、初めて気付いたが、この画像には、参拝客が手を合わせる様子がガラス窓にも映っている。判然としないので、これまでは着目しなかったが、どうやら当人とは別の者が映っているようだ。背後からしがみ付く男と、濃しに縋り付く子どもの姿が見える(⑦)。
 この女性には何か問題があり、それがこの男性と子どもに関わること。そのことについて、「でっかい女」が謗っているように見える。

 「巫女さま」と「でっかい女」は対照的な存在で、ちょうど「ゆかり」ちゃんと「のぞみ」ちゃんの関係と同じなのかもしれぬ。。片方は「罰」を与え、もう片方は「希望」を与える。

追記1)どうやら人類には、二種類がいるようだ。
 画像④の私(フラッシュ光)の「後ろに人影が立っている」と認識出来る者と、出来ない人だ。後者から見れば「一体何のことを言ってるの?」だろう。そういう人はあの世の「障りや恩恵」を感じ難い。また、あの世の者の所在を感じなければ、煩わされずに暮らせる。
 私の場合は、障りを受けることも多いが、その一方で危機が事前に分るので、死なずに済んでいる。「お迎え」に会ったのに、その後一年を超えて生き続けている者は、今のところ私だけ。

 利点不利点の両方があるから、どちらかが良いとは言えない。

追記2)画像⑤は、どんな人でも、「私の左側に腕が出ており、その腕と私が銀色の鎖で繋がれている」のを確認出来る筈だ。普段は半透明もしくは透明だが、条件により完全に実体化して可視化する。

追記3)「でっかい女」は「巫女さま」にそっくりだが、黒い服を着ていることが多いので、今後はこの女を「黒巫女さま」と呼ぶことにする。こちらは懲罰を与える側で、「因果応報」を体現する者、すなわちアモンの仲間だ。

 「巫女さま」「黒巫女さま」は姉妹のような存在だと思う。

 

◎病棟日誌 悲喜交々4/11「愛嬌は己を救う」

病棟日誌 悲喜交々4/11「愛嬌は己を救う」
 朝の計量は介護士のバーサン。
 「鶴岡雅義です」
 「知ってる。それは歌手」
 「サービス問題ですよ」
 昭和四十年代にテレビを観ている世代なら、ほぼ百%憶えている。思い出の名前には、易しいのと難しいのを取り混ぜるようにしているが、そうしないと脳のマッサージにならない。
 だが、このバーサンも、ただのバーサンではなく旅行好きだ。一人でドイツとかトルコとかに行っていたらしい。電車が好きで一日中乗っていても平気なそうだ。

 問診はユキコさん担当だった。
 「何か変化がありますか」
 「別に障害者なりに調子は良いです。気が付いたら髭が真っ白になってたけど」
 今朝気が付いたが、顎髭が全部白かった。ま、血流に問題があるわけだから、毛髪への影響はある。
 「もはや急速にジーサン化してますね」
 すると、「白髪」の話が響いたのか、ユキコさんが反応した。
 「下の毛にも白髪が混じってたりしますね。トシを感じます」
 ユキコさんは五十台でオバサンの域だが、「下の毛」の話はちょっとどんなもんだろ。そこの白髪の話になると、到底セクシーじゃねえし。
 うーん。

 治療が終わり、食堂に行ったが、お茶屋のトダさんは来なかった。
 前回の顔色が悪かったから、あるいは入院病棟に戻ったか。
 食が細い時の裏技として「ぬるい蕎麦」を教えようと思ったのだが、この日は伝えられず。
 我々クラスの患者になると、ソーメンは既にダメで、温かい蕎麦も冷たい蕎麦も食べる気にならない。だが、わんこ蕎麦くらいの「温い蕎麦を少量」なら食べられる。少しでも食べると、血糖値の上下向が起き、これのせいで空腹感を覚える。で、次の食事が食べられる。食は食欲を増進するが、反対に食わないでいると一層食べたくなくなる。
 今のトダさんは二年半前の私と同じ状態だ。すなわち生死を分かつ危機に立っている。
 問題は「料理をすると食べたくなくなる」ことだ。少しでも食べようと料理を始めるが、途中で嫌になり止めてしまう。
 ここは出汁を作り置きし、蕎麦は冷凍してあるのを使い、食べる直前で解凍し、ぬるくなるまで温めるしかない。

 母が亡くなる直前には、「どうやったら食べて貰えるか」と料理に苦心した。その時の気持ちが残っているから、同じ症状の人を見ると放っては置くぬ気持ちになる。
 ま、それもその人が気立ての良い人だからという面が大きい。
 娘はいつも仏頂面をしている。苦痛を経験したから仕方がないが、やはり「生きていくために、いつもニコニコしていろ」と言う。いずれそれが伝わる日が来ればよいのだが。 

◎霊界通信 「何を伝えようとしているのか」

◎霊界通信 「何を伝えようとしているのか」
 水曜朝になり、四年前のことを思い出した。
 香港のクルーズ船が横浜に入港したのが三月の初めで、その幾日か前に、神社のガラス窓に「防護服の男」が現れたのだった。
 「コロナ」どころか、まだ「武漢肺炎」「新型肺炎」の名称も定着していない頃に、防護服の男が出たので、当時は男の意味が分からなかった。もちろん、半年後には「これか」と痛感させられた。

 今はまたガタガタと動き始めている。
 八日の「髪の毛クシャクシャ」のヤツは明らかに悪縁なのだが、私に関わろうとする者ではない。別の意図または目的をもって姿を現した。
 確かめる必要があると考え、細目にセルフチェックをすることにした。

 最寄りの八幡神社でガラス映像を撮影したが、いつもより煙が出るのが早い。定位置に立つと、すぐに「穴」が開き、びゅうびゅうと煙が出た。
 途中の変化で何が起きているかは、説明してもどうせ伝わらないので省略するが、三枚目で私の左横に「少女」が立っているのは、幾人かは見て取れるだろうと思う。
 この子だけは、うっすらとシルエットが出ている。小学六年か中一くらいの女児だ。

 ここで白状すると、八日にも何らかの悪縁が近づくであろうことは予期していた。
 これは私が「苛めに苦しみ自死を選ぶ子どもを止めるためには、アモンを案内するべきではないか」と考えていたからだ。
 アモンは実在する筋金入りの悪魔だから、子どもが「苛めっ子を叩きのめして」と願えば、その通りにすると思う。
 基本は「その相手の死後、自分たちのものにする」というものだが、さらに強く願えば、今生のうちに仕返しをしてくれる。
 ただ、この世の刑法とは違い、悪縁の障りには限度が無い。親や子、親戚どころか隣の家の猫まで累が及ぶ。
 それと同時に、呪いをかけた当人も、代償としてその相手と同じ目に遭うことになる。
 「それでも、自死すればやはり無限に苦しむのだから、やり方を教えた方がましでは」などと考えていたのだった。どうせ地獄なら、相手も道連れに。
 そこに「髪の毛クシャ」が出たので、むしろ「やっぱり」と納得した。
 帰宅してからは、回線の繋がっていない電話が「チリ」「ジリ」と連続して鳴ったから、たぶん、アモン一派が「やれ」「教えてやれ」と背中を押していたのだろう。

 この時想定していたのは、「苛めっ子」や「不法外国人」だった。
 そんなことを考えつつ、この日もガラス窓の前に立ったわけだが、この思考に添うように女児が現れた。ま、順当には「恨みを晴らして」ってことだ。
 苛めっ子ややりたい放題の不良外国人に対し、直接手を下さなくとも罰してくれるのであれば、話が簡単だ。だが、いざスイッチが入ったら、たぶん、障りは小さい子から始まると思う。そこから年寄りに及び、ぽろぽろと欠けて行く。傍にいるだけで無関係の者まで悪影響があることと、「同じことが呪詛をかけた者にも起きる」ので、アモンを頼むにはよほどの覚悟がいる。

 ま、アモンや「ゆかりちゃん」の側ではなく、「のぞみちゃん」の道筋を目指すべきではある。
 と、ここで悪意を解除し、桜を眺めて、気持ちをほぐした。
 悪意はなるべく家に持ち帰らぬ方が無難だ。

 一方、このところの「あの世の者」たちは、個人的感情ではない何かを訴えているようにも見える。
 令和元年から二年の頃のあの騒がしさよりも、真剣度が高いかもしれぬ。
 正直、「今年中にウラジミールを街灯に吊るさぬと、来年には何千万人かが死ぬ」かもしれない。(最後は妄想だ。)

 とりあえず、先ほど自分の子どもたちのためにガスマスクを注文した。
 都心で働いているので、そのうち必要になるかもしれん。

 半年後くらいにしか分からぬ話なので、現時点ではこれが原因でパニックなどが起きるわけがない。そこは気が楽だ。ただの妄言の域でのこと。

 

追記1)幽霊の声を聞いたことが無い者は「ただの妄想」と思うかもしれぬ。

 もちろん、それでよい。そういう人は私や私の同類が抱える苦痛とは無縁だから、気にしなくとも良い。

 私は「お迎え」(死神)に直接対峙したことがあるので、以後は自分の直感を一番に信じる。あの世の者はこの日もきちんと「決まり通りの手順」に従って、私に「自分たちは実際にいる」と示している。

 実例を挙げると、三枚目の画像では、前後に二枚の自動ドアがあるので、ガラス窓には参拝客の女性の姿が二重に映っている。自動ドアが前後二枚だから二重映りだ。

 だが、私の腕を数えてみると、合計で六本あり、二重映りよりも「二本多い」。

 私はごく普通の一般人なので、個々の見間違いや判断違いも多いのだが、事物の見え方如何に関わらず、「明らかなメッセージを含む」ことは疑いない。

 少女の姿が見える者には「とりあえず飲料水を2カートン買っとけ」と伝えて置く。

 

追記2)冒頭の「髪の毛クシャ」(八日撮影)をよく見ると、やはりベースは女だと思う。それに別の者や獣みたいなものがぐじゃぐじゃと重なっている。

 まるで『遊星からの物体X』の終盤にに出て来る「ひとや獣が入り混じったバケモノ」のようだ。

 ちなみに、あまり長い間見コイツを詰めないように。

 

 総てが私の妄想であることを願う。それは「この後何も起きない」ことを意味する。

 単なる妄想癖ほど幸せなことはない。

 追記)「隠すな」ということなので、下を付記する。

 

◎病棟日誌 悲喜交々4/9 「食べるのが基本」

病棟日誌 悲喜交々4/9 「食べるのが基本」
 治療の後で食堂に行くと、「お茶屋のオバサン」が座っていた。
 簡単な挨拶をしたが、オバサンの表情が暗い。
 「まだあまり調子が良く無いのだな」と思いつつ、自分の席を見付けてそこに座る。

 ほんの数分後にオバサンが去り、介護士のバーサンがトレイを片付けに来た。
 「あれ。トダさんは全然食べられていないな。これじゃあ、1にも届かない」
 バーサンは患者ごとに「どれくらい食べたか」を記録しているのだが、10段階で評価する。それが「1にも満たない」のでは、「手を付けていない」のと同じことだ。

 これは二年半前の私と同じ状態だ。
 うっかり苦手な稲荷の神域に入り込んで、障りを得た。
 それから半年以上、その障りに苦しめられたが、食事がまったく喉を通らず、十二キロ痩せた。心臓に水が溜まり、肺水腫になったから、横になって眠ることが出来なくなった。椅子に座ったままほんの少し目を瞑る状態で、寝ても覚めても常に酸素を吸っていた。
 これで食べられるわけがない。

 ここで気が付く。
 「あの人は老いた親と一緒に暮らしている」
 ダンナはそもそもいなかったか、あるいは早くに死別した。
 自身も障害者だが、家に帰ると、手が掛かる年寄りが待っている。

 もちろん、これも勝手な憶測だが、こういう感じの直感は外れたことが無い。
 「だが、もしかすると、家に居るのは老いた親ではないのかもしれん」
 私に起きたことがトダさんに起きているかもしれん。
 そこで次に会った時に実際に確かめてみることにした。
 「年寄りの影」は、実際には存在しない者かもしれんが、それならその影響を排除すれば、食事を摂れるようになる。
 これは私の経過と同じ。
 とりあえず、次はお茶屋のオバサンと傍の席に座ることにした。傍から見れば、少し変な風に見えるかもしれんが、このまま放置すれば長く持たないと思う。
 他人の生き死にに関わるつもりは毛頭ないが、ほんのちょっとした変化を加えることで死なずに済む場合もある。

 一方、「お茶屋のオジサン」の方は姿を消した。
 このところ、急速に弱っている感じがあったが、入院病棟に入ったか。この人は車椅子に乗るようになり、一年もったが、それだけ長く耐えられたのは、「食事をきちんと摂る」からだと思う。食べるスピードは遅いが、出された食事をきちんと全部食べていた。病院めしも、一時間かけて、ゆくうりと全部食べた。
 それを見ていたので、「このオジサンを見習って、これも仕事だと思って残さずに食べよう」と思うようになった。

 今日はたまたまだが、「お茶屋のオバサン」がトダさんという名だと分かった。この病棟は交差点と同じで、いちいち通る人の名前を確かめたりしないところだ。

◎霊界通信 「地獄の釜の蓋が開く」

◎霊界通信 「地獄の釜の蓋が開く」

 能仁寺の山門の外に、人目につかぬ場所に仏さまが立っていたが、どうやらこのお寺とは由来が違うのか、周囲は荒れ加減だった。

 あまりお線香を供える人が多くないのか、焼香台には灰が見えず、水が溜まっていた。

 「こういう感じのところは警戒が必要だ」

 ひとの信仰心に支えられぬ地蔵や不動の周囲には、不浄の者が寄り憑きやすい。

 衆生を分け隔てなく救済するのが地蔵や不動なので、これを縋る者が多くなる。ところが、それらの背中を押し、先に進めるのが人々の信仰心だ。周りに集まってはみたが、為す術もなく、その場にとどまる者がいるから、「気を付けろ」と言うわけだ。

 人が滅多に来ぬところに、突然、供養してくれようという者が現れれば、誰でもその者に飛びつく。ご供養を施しているのに、逆に不浄の者が寄り憑いてしまうという結果を生んでしまうかもしれん。

 お焼香をする間、やはり、「誰かが見ている」感じがするので、早々にその場を離れた。

 

 お寺を出て、神社に向かったのだが、何となくそわそわする。

 セルフチェックをすべく、幾枚か撮影したので、駐車場で開いて見ると、最初の一枚に良からぬものが出ていた。

 この髪の毛がクシャクシャッと固まったようなヤツは、もの凄く性質の悪い悪縁だ。

 誰彼なく悪さを働こうとする。元は女だったかもしれぬが、何十何百と凝り固まったので、今は黒い塊にしか見えない。

ちなみに、こういうのは中を覗き込んだらダメだ。こっちが興味を持って覗くと、それが相手の心に響く。

 私の肩口に女性の顔が出ているが、たぶん、巫女さまだと思う。下を向いているので断言はできぬが、巫女さまが顔出しまでして支えているのは、前にいるヤツが相当性質の悪いヤツだからということ。

 悪縁が近づいた時には、必ず巫女さまが現れるが、私みたいな者が無防備に悪縁に近づけば、たちまち取って食われると思う。

 もはや悪霊と言っても良い存在なのだが、コイツはそれこそ地獄の底にいるような者だから、コイツが外にいるのであれば、それこそ「地獄の釜の蓋が開いた」状態だと思う。

 まともに写ったのは、最初の一枚だけで、他は普通の「ちょっとした影」程度の状況だった。

 同じ場所、構図で複数枚撮影したが、この内門の同じ位置に、「髪の毛クシャクシャ」が出たのは、最初の一枚だけだ。

 何となく「女の頭みたいだ」と思うだろうが、それは正しい。

 私の服の一部を隠しているから、「私の前にいた」ということで、門の陰から頭を出したわけではない。

 この日の最初の「地蔵」周辺と関りがあるかどうかは、まだはっきりしない。

 

 ちなみに、こういう出方をする時には、「少し姿を晒してみて、それを認識出来るどうかを確かめる」ためのことがあり、そういうケースには、その場のどこかから「こちらを見る視線(眼)」が覗いている。

 目視ではっきりしない時には、少し離れた箇所を調べ、「そこには存在しない筈の目のようなもの」があれば、疑いなく幽霊が関わっている。

 それが悪縁であれば、尚更、「己の姿を隠そうとする」ので、「見えるからいる」「見えぬからいない」という発想をすると、判断を誤る。

 合理的な判断など、「将棋盤の上で行う将棋」と同様に「ゲーム」に過ぎない。盤の外では通用しないのだ。ルールが通用するのは、自分と相手が決まりに従って行動する時だけの話だ。

 将棋で命を獲られることはないが、悪縁に負けると心が支配される。

 過度に恐怖心を持つ必要はないが、甘く見てはならない。いざしくじれば、やり直しがきかない。

 

 今年から来年にかけて、「大異変が起きる」と言われるが、とりあえずあの世ではもう始まっている。

 「大災害が起きる」予言については、必ずしもこの世の出来事ではない可能性があるが、この世の出来事と連動している場合があるので警戒が必要だ。

 何年かぶりに、がたがたとあの世が動いており、性質の悪い者が這い出て来た。

 

◎能仁寺にてご供養(4/8)

能仁寺にてご供養(4/8
 前夜、微妙な夢を観たので、朝からご供養に行くことにした。あれこれ考えるよりもすぐに行動を起こした方が問題が小さくなる。

 月曜の朝なので参詣客が少なく、駐車場にも入れられる。
 たまたま山門の脇に目を遣ると、地蔵菩薩など数体の仏さまが立っていたので、そちらにお焼香した。
 少し周囲が荒れていたので、少しく緊張した。
 焼香台にも雨水が溜まっており、灰が見えぬところを見ると、やはりここは人目につかず、お焼香する人が少ないようだ。
 山門の外だし、ひとの信仰に支えられていない地蔵や不動像には注意警戒する必要がある。

 あとはいつも通りの手順でご供養した。
 小鹿野の子どもたちは、今は私の傍にいると思うが、自己都合で引き留めて置くのも可哀想だ。
 「引き留めたりしないから、先に進んで、また人として生まれて来るとよい」
 リンゴジュースを供えようとしたのだが、口を開けて、うっかりすぐに飲んでしまった。祈祷よりも先に飲んだので、また改めてご供養することにした。

 お寺を出ると、日高の高麗神社でセルフチェックをした。
 桜が満開で、境内が華やかだった。
 鳥居の外には、ソメイヨシノの他に十月桜も咲いていたが、さすがに華やかさと言う点では前者の方が勝っている。
 ここの十月桜は、年に二回、十月と三月に開花し、二か月の間咲き続ける。
 「昔のキャバレー(古い)にもいたよな。ショートカットで地味な感じだが、体育会系で実はスタイルが抜群にきれい。派手さはないが、シンプルかつ味がある」
 例えはイマイチだが、大人になると十月桜の有難さはよく分かる。

 セルフチェックでは発見があった。