日刊早坂ノボル新聞

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◎「賽の河原」で子どもたちが「小石を積む」理由 (『鬼灯の城』ノート)

「賽の河原」で子どもたちが「小石を積む」理由 (『鬼灯の城』ノート)

 あの世に関わる伝承のひとつが「賽の河原」だ。

 水子や幼児が親に先立つと、この世とあの世の境目にある「賽の河原」で、一日中小石を積む。

 しかし、夕方になると、地獄の鬼や羅刹がやって来て、その小石の山を崩してしまう。

 翌朝になると、子どもたちは、また最初から小石を積まねばならない。

 概ねこんな話だ。

 

 一般的には、九世紀頃に空也上人が書いた『西院河原地蔵和讃』が始まりとされているのだが、この原文は残って居らず、様々なかたちに変化して、その変化形が御詠歌になった。

 名前も「西院河原」が「西河原」となり、「賽の河原」と変わって行く。

 

 歌の大半が悲惨な内容で、子どもたちは責められに責められるのだが、最後に地蔵菩薩が現れ、救済を宣言してくれる。

 この落差が大きいので、多く布教に用いられたのだろう。

 長い歌だが、遊園地の「お化け屋敷」のBGMに使われたりするので、誰でもこの部分は聞いたことがあると思う。

 

 一重つんでは幼子が 紅葉のような手を合わせ 父上菩提と伏し拝む

 二重つんでは手を合わし 母上菩提と回向する

 三重つんではふるさとに 残る兄弟我がためと 礼拝回向ぞしおらしや

 (歌全体はこの三十倍くらいの長さ)

 なお「一重積んでは」は「一つ積んでは」とされることが多いようだ。

 

 ところで、素朴な疑問だが、何故親より先に死んだ子どもらが、三途の川を渡れずに賽の河原で「小石を積まされる」のだろうか。

 一体どういう意味?

 暫く考えさせられたが、どなたかの解説(失念)にヒントが書いてあった。

 「小石」は「恋しい」で、子どもらは親を、また親は子を慕って、「恋しい」「恋しい」という思い(重い)を幾度となく反芻することになる。

 「恋しいを重ねる」と考えると、なるほどと納得する。

 ま、歌の中でも韻を強調しているから分かりよい。

 

 ちなみに、拙作の『鬼灯の城』はこれから最終章に入るのだが、その冒頭で小笠原重清が巫女の杜鵑女を鞭打ちの刑に処した後、釜沢から放逐する。

 杜鵑女は、その時初めて「重清を男性として慕っていた」ことを告白するが、しかし、もはややり直すことが出来なくなっている。

 傷ついた杜鵑女は「歌」を口ずさんで、館を去って行く。

 この場面を想定した時に、杜鵑女に「どのような歌を歌わせるか」を考えたのだが、例によって、そこで思考停止。

 所謂、「引かれ者の小唄」になるのだが、「小唄」は戦国時代ではまだ成立していない。

 となると、平家滅亡のさまを描いた「能」の一節(『敦盛』みたいな)になりそうなのだが、どうもしっくり来ない。

 ちなみに、「能」『敦盛』と言えば、誰もが織田信長を思い浮かべると思うが、あの「人生ドータラ」の部分は『敦盛』の文脈の中では極めて異質な「ごく一部」だ。

 (そもそも、「織田信長が・・・」も作り話だろう。そもそも興味が無いので調べない。)

 

 そこで、御詠歌系を検索していたのだが、中世以前に成立していなくては使えぬので、時代を遡行する必要がある。

 たまたま『地蔵和讃』にあたったので、これを調べると、九世紀の空也上人の原典はとっくの昔に失われてしまっているらしい。

 今に伝わる『賽の河原地蔵和讃』は大半が近世以降のもののようだ。

 だが、既に存在していたのは事実だろうから、結局、『西河原地蔵和讃』を中心に組み立てるものとした。

 

 これを調べたり設計したりするするのにひと月掛かったが、たぶん、杜鵑女が「女心を吐露する」ところで、また止まる(笑)。

 私は「女心」がまるで分からない。

 「こう書こう」と気持ちが固まった時には、疲れ果てているか、具合が悪かったりして、「結局、下書きをそのまま出す」羽目になる。

 まさに悪文製造マシンだ。

 

追記)結局はこの辺あたりか。

 母はこれを忍べども などて報いの無かるべき 胸を叩くその音は 奈落の底に鳴り響く
 父が抱かんとするときに 母を離れず泣く声は 八万地獄に響くなり
 父の涙は火の雨と なりてその身に振りかかり
 母の涙は氷となりて その身をとずる嘆きこそ 子故の闇の呵責なれ

 この瞬間に杜鵑女は、世人を呪う「黒巫女」となり、世の中に怨念と恐怖を撒き散らす存在になる。

 『鬼灯の城』を終えると、次の話『鳥谷ケ崎情夜』に展開が変わる。

 『情夜』シリーズは、地獄の亡者や鬼、化け物に関わる話だ。

 

◆『鳥谷ケ崎情夜』ガイドライン

 文禄年間と思しき時代の話。

 鳥谷ケ崎(花巻)城代の北信愛は長らく昏睡状態にあった息子の北秀愛の目を覚まさせるために、一人の巫女を呼び寄せる。これが杜鵑女で、杜鵑女は侍に復讐心を抱く黒巫女だった。

 杜鵑女は地獄から怨霊を呼び寄せ、秀愛の体に宿らせる。

 北秀愛は目を覚ますと、かつての秀愛とは似ても似つかぬ人格に替わっていた。

 秀愛は杜鵑女を参謀に据え、「地獄の窯の蓋を開く」ことを画策する。

 杜鵑女は「この世に祟りの雨を降らす」ことを進めていたが、あの世に通じる霊験を持つ女を見付け、これを捕らえる。これが毘沙門党の紅蜘蛛お連だ。

 お連は鳥谷ケ崎城の地下牢に捕らえられたが、そのことを知り、日戸佐助がお連の救出に来る。

 ところが、城は既に亡者の手中に落ちており、北信愛さえも地下牢に幽閉されていた。  

 佐助は牡鹿谷に向かい、田無権平衛(玉山大和)に助力を乞う。

 

 ここからはオールスター戦になる。

 お連のために頑慶と清雲がやって来る。真海(釜沢淡州の子)も一緒だ。

 玉山大和の子である兵庫も、日戸一族と共に手勢を引き連れ参陣する。

 敵は三十万に及ぶ地獄の亡者たちだが、まだ窯の蓋が完全に開いておらず、城中に二千匹がいるだけ。倒すならこのひと月の内だ。

 「情夜」「地獄」と来れば、赤平虎一(赤虎)の出番だ。

 赤虎は既に死んでいるが、冥界からお連に手を差し伸べる。

 

 この着想自体は十年近く前のものだ。

 長らく寝かせていたが、二年くらい前にその主要キャラである杜鵑女の人格づくりを始めることにした。それが『鬼灯の城』になる。

 悪の限りを尽くす黒巫女が降って沸いたのでは面白くないから、きちんとしたプロフィールを立てることにしたのだ。

 百手先のことを考えて打ったのが『鬼灯の城』だったが、果たして『鳥谷ケ崎情夜』を完遂できるかどうか。

 もはや長編は無理だろうから、きっちり中編で収めようと思う。

 これで紅蜘蛛にまつわる話を完結させる。もちろん、ハッピーエンドの予定。