日刊早坂ノボル新聞

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◎「関東西部」の食文化の東限

「関東西部」の食文化の東限
 お正月の最初の病院めしは、関東西部のソウルフードであるソースかつ丼だった。
 年の初めを感じさせるのは、キャベツ敷きだけでなく、パプリカが乗せられていたことだ(いずれも湯通し済み)。正月だけに赤色が入るようにしたらしい。
 長野や山梨、そして埼玉の秩父までは、完全にソースかつ丼文化だが、当方の住む埼玉の「やや西寄り」の地域がこの食文化の東限のようで、市内の大衆食堂で「ソースかつ丼」のお品書きがあるのは二店だけだった。これは突然食べたくなった時のために調べた。ま、ネットでお品書きを公表していない店もあるから、まだ何軒かはあると思う。東京に入ると、「かつ丼」は普通の卵でとじたかつ丼が主流になる。

 もし豚の主要産地である栃木とか群馬の養豚地域に行けば、「ソースかつ丼」はさぞ美味かろうと思う。
 以前、その方面を車でうろついたことがあったが、空腹を覚え、昔ながらの大衆食堂に入った。無難な品を頼むつもりで「生姜焼き定食」を頼むと、出された品が抜群に美味い。
 「コイツはどうしたことか」と驚いたが、すぐにその答えが分かった。すぐ傍のテーブルで男二人が食事をしていたが、その人たちは近くの養豚場を経営しているひとたちだった。
 細かい話は忘れたが、総飼養頭数は「何千頭」ではなかったと思う。
 「それなら良質な豚がどういうものかを熟知しているのは当たり前だ」と思った。その地域の人もそこの豚を食べるから舌が肥えている。町場の小さな大衆食堂でも「唸るような味」の品を出す。そうしないと生き残ってはいけない。

 食文化なら、たぶん「関東西部」は秩父以西だと思う。少し北寄りなら東松山辺りまではホルモンが根強く定着しており「ソースかつ丼」も割合あるから、ここいらも「関東西部」だ。

 同じ発想で「蕎麦の出汁のつくり」で、関東と東北の境を探求したことがある。
 もちろん、既に蕎麦食文化は戦後の交流が進んでいるので、市街の蕎麦屋では入り組んでおり、はっきりした境目はないと思う。
 だが、高速道路のサービスエリアなら、業者が関東から東北に切り替わる境目がある筈だ。
 そう考えて、総てのサービスエリア、売店で蕎麦を食べてみたら、東京周辺では「鰹・昆布の醤油味」だったが、白河を超えた辺りで、急速に汁の色が薄くなった。

 なるほど「白河以北~」は現代も生きている言葉だと納得した記憶がある。

 ちなみに、岩手中央で育った当方は、汁が真っ黒(醤油色)の蕎麦を食べた経験がない。岩手県北から三陸では「煮干し・昆布・椎茸ベースの塩味に醤油は色付け」が基本だったから、東京で立ち食いそばを始めて食べた時に少なからず驚いた。

 「汁が真っ黒だ!」

 盛岡周辺も殿様の料理人を京都から連れて来たから、基本は薄味の筈だが、昭和四十年頃でも市内には醤油色の蕎麦を出す蕎麦屋があったと思う。
 小学生の時に母の見舞いのために月にニ三度市内に来たが、最初はラーメンを食べ、それに飽きると、今度は蕎麦を食べて帰った。
 あらかた大通りの全部の店に入っているのではないかと思う。

 だが、時々記すように、蕎麦本来の「江戸の味」は、醤油に鰹節を突っ込んで作ったつけ汁だったから、もの凄く塩辛い。
 だからほんの少し端を浸すだけで食べられたし、そこで止めぬとしょっぱ過ぎた。

 「通は端をほんの少し浸す」と言われるが、なあにそうしないと塩辛すぎただけ。

 今は甘目の麺つゆを使うから、たっぷり漬けても構わない。

 かたちだけ真似をするのは「通」ではない。歴史を知れよな。

 その伝統を今も残しているのが、埼玉の秩父方面で、地元の人の振舞ってくれたそばを食べたことがあるが、慣れぬ者にはしょっぱ過ぎて食べられない。
 山梨や長野の「関東西部」に伝わる「昔ながらの蕎麦」を食べてみれば、やはり「江戸の味」に近いのかもしれん。
 東京にはもはや「江戸の味」は殆どないが、「関東西部」には残っている可能性がある。

 食文化はある程度地域性が残っており、境界がはっきりと分けられるから面白い。
 前述の豚の産地では豚ホルモンも抜群に美味いので、いつも食べようと思うが、直前になり「ホルモンを食べたら、必ず酒を飲まずにはいられんだろう」と思い、必ず控える。
 車で移動するので、アルコールには近付けない。
 泊まりで訪れねば、ホルモンは食べられない。