日刊早坂ノボル新聞

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◎アモンの肖像

◎アモンの肖像

 アモンは筋金入りの悪縁(悪魔)だ。

 元は人間だったのだろうが、他の幽霊を取り込んで、強大な悪縁になった。

 人間の姿でいることが多いが、ほとんどが女だ。外見はきれいだが、本体はバケモノだ。ま、そういうのは生きた人間の中にもいる。

 アモンとの最初の出会いは六年前だ。

 令和元年の七月に、猫に会うために高麗神社に参拝した。

 その時に撮影した画像に、バケモノが写っていた。

 

 ちなみに、当時は先方に迷惑が掛からぬように、不審な出来事があった時にはその場所を秘匿していた。だが、その後、「どこに行っても、TPOが合いさえすれば、うまく説明のつかぬもの(幽霊など)が撮影できる」ことに気付いた。

 場所は関係なく、スーパーや日帰り温泉の窓ガラスでも起きる。となると、総てに共通する要因は「私自身」しかない。要は、そこが「スポット」だから幽霊などが現れたのではなく、そこに私がいるから現れたのだということ。

 他の誰かが同じ場所に行っても、恐らく何も起こらない。

 たぶん、私が一度「心停止を経験した」ことと、「お迎えに会った後も生きている」ことに関係があると思う。この世とあの世の境界線を踏んでいるから、異常なことが起きる。

 

 この日、神殿の前に立ち、すぐに撮影したが、最初は私の姿が窓ガラスに映らなかった。これはまあ光の関係でよくあるが、その場にはいない筈の女性の姿がガラスに映っている。その後も連写したが、女性が神殿の前に来た様子が一切なく、この一枚だけ。

 証拠がないので、「参拝客か幽霊」としたが、たぶん、後者だと思う。ま、通行霊だろうから影響はなく、気にする必要もない。

 

 移動して二枚目を撮影すると、ここでガラスに白いTシャツ姿の私が映った。 

 私の左肩には、黒い煙玉(黒玉)が出ている。

 これが三枚目には、白い煙玉となり、女の顔に変化した。

 拡大すると、煙の向こうに女の視線が見える筈だが、覗き見るのは止めて置くこと。

 眼を合わせると、感度が高まり、敏感になって行くことがある。

 あの世の者と接触することには、良いことは何もない。面倒ごとが増えるだけ。

 「話十分の一」くらいに聞き、「あるわけねえだろ」と思っていた方が無難だ。

 ちなみに、私の左には別に女が二人いると思う。これは目視出来ず気配だけ。

 

 誰でも見えるのは、三枚目の右下の二人の人影だ。

 この「老夫婦」については繰り返し説明して来たが、有り得ぬ場所に、有り得ぬサイズで映っている。私と窓ガラスまでの距離、外の景色のサイズで、どの位置にいて、どれくらいの大きさかが分かるのだが、この老夫婦は、ここにこうやって写るのであれば、疑いなく空中にいる。

 二人の周囲に煙玉が見えるから、この煙玉がレンズのような効果を果たし、あの世を覗き見られた一瞬だったようだ。二人の周囲にも複数の霊体がいると思う。

 

 次に赤外線カメラに替えて撮影した。

 赤外線カメラの場合、光量によって鮮明さがかなり変わる。

 この状態であれば、この日は薄曇りだったようだ。

 Tシャツの位置が、すなわち私の立ち位置なのだが、直射日光ではないとこの程度の写り方になる。しかもガラス窓に反射させるから一層不鮮明だ。

 なお、これまではトーンに強弱をつけた画像を公開して来たが、今回は殆ど生のままの状態の画像にした。

 「赤二枚目」の画像には、左側にTシャツの私が見えるが、周囲に違和感がある。

 拡大していくと、私の胴体には、右手の指が掛かっており、頭の左上にはバケモノ顔があった。

 

 こういう意画像は多く、時間の経過と共に変化するのだが、これも例外ではないようで、この当時はバケモノとその直後の女の顔しか見えなかったのだが、今は右横の女も見えるようになった。

 あの世の実態は霧もしくは煙の状態で、かたちは「そのように現れる時もある」という程度だが、画像が変化して行くのは、どう説明できるのか。 

 はっきりしないじゃないかと思う者が多い筈だが、実態として存在している私の顔よりも、このバケモノ顔の方が鮮明に見える。

 ちなみに、いつも私の眼を隠すが、「眼は心の窓」ということで、上述の「あまり覗き込むな」の理由とほぼ同じ。接点(共通点)が生じると、それだけで影響が生じる場合がある。立ち入らぬ領域には立ち入らぬ方がよく、話半分に聞いとくのが一番だ。

 

 この当時は状況を理解するのに時間を要したが、コイツが人の心の中を注視する者で、あの世で「人の魂を食う」ことが分かった。恨みや妬みなど負の感情に敏感で、そういう感情を抱えた幽霊を取り込んで自分の中に入れる。もちろん、生きた者の心も関心を持っているが、食いに来るのはその相手が死んだ後だ。

 よく言われる「悪魔」と似ているが、ひとの生き死にそのものには興味を持っていない。よって、生きた人間を殺しに来るなどということはない。

 自分自身があの世の存在だから、アモンにとって「死ぬ」のはただの通過点に過ぎないという認識だ。

 

 ここからが本題だ。

 もし今、いわれのない悪意を投げかけられ、苦しんでいるのなら、「アモンに頼む」という選択肢がある。自死をしたくなるほどなら、その前に選ぶ手があるということ。

 無難な願い方は、「相手の死後」についてアモンに委ねるというものだ。アモンはあの世にいるから、その線の向こう側であれば、アモンは簡単に奴隷に出来る。

 あるいは、直接手を出せるのは、生き死にが発生した時なので、憎しみを与えるべき相手に子どもが出来る時にも悪影響を与えることが出来る。

 その意味では「子や孫に祟る」のが、最も叶えやすい呪詛だと言える。 

 

 それでは我慢出来ず、どうしても目の前にいる当人に報いを与えたい場合は、アモンに「総てを与える」と申し出れば、そうしてくれる。

 だが、その場合は、自分も呪いをかけた相手と「同じ目に遭う」と思った方がよい。

 この世にもあの世にもタダで得られるものは無く、必ず代償を払う。

 「ひとを呪わば穴二つ」ということわざの通りで、言い訳は通用しない。

 死後に、アモンの率いる奴隷の隊列に加わることを受け入れられるなら、「総てを与えるから」と約束すればよい。たぶん、憎む相手当人だけでなく、親や兄弟、親族、友人知人を含め、甚大な障りを与えてくれると思う。もちろん、それは願った方も同じことだ。隣の家の猫までいなくなる。

 それなら、最初の段階の「アモンさまがあの者を引き取って下さい」と願うところで留めた方がよい。あらゆる神社やお寺で、繰り返し「アモンの呪詛」を唱える。

 もちろん、死後には呪詛をかけた方も「自分と同類のいる世界」に入る。憎しみや恨みを持つ者ばかりいる場所だ。

 

 以上のことは、あくまで「自死を考えるくらいなら」という意味での話だ。

 身を捨てる覚悟があるのなら、それまで抱えているものをゼロにすれば、またやり直すことが出来る。呪詛は代償が大きいので、他の選択を十分に考えること。

 

 話は少し違うが、アモンらは現世利益も割と簡単にくれる。

 「お金」がもっとも簡単だが、「ください」と心底から願うと、ポンと投げてくれる。だが、もちろん、タダではなく、必ずその代償を取る。

 この場合、はっきりと「オレ(アモン)が与えた」と分かるようなかたちで投げて来る。だが、折り返し、仕事を失ったり、家族を失ったり、家が焼けたりする。

 

 こういうのを「単なる妄想」だと思えるうちが無難だ。

 いざ関わって来られると、煩く付きまとわれる。

 

 「アモン」はこの画像を撮影した一年後くらいに、自ら名乗った名前だ。

 発音的には「ウモン」に近く、キリスト教の悪魔アモンとは関係が無い。

 古代語らしい。