日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎目線があちら主体 (日韓首脳会談?)

目線があちら主体 (日韓首脳会談?)

 読売新聞の今日午前一時台の配信。

 

 日韓両政府は東京五輪に合わせ、23日に菅首相と韓国の文在寅(ムンジェイン)大統領による初の対面での首脳会談を行う方針を固めた。

 会談は東京・元赤坂の迎賓館で予定している。慰安婦問題や「元徴用工(旧朝鮮半島出身労働者)」をめぐる問題などについて協議する見通しだ。

 これに合わせ、日本政府は、在韓国大使館の相馬弘尚総括公使を文氏の対日姿勢について不適切な表現で批判したとして更迭する構えだ。

 この問題で、韓国のJTBCテレビは16日、大使館幹部が自社の記者と懇談した際、文氏の対日姿勢が独り善がりだとの見方を示し、「マスターベーション(自慰)」との表現を使ったと伝えた。

 政府はこの幹部が相馬公使と認めたうえで、相馬氏の発言が日韓首脳会談の障害となるのは避けたい考えだ。政府高官は「発言は外交官としてあるまじきものだ」と述べた。引用ここまで。

 

 相馬公使の発言は、私的懇談の中にせよ、適切では無いと思う。

 「ムン外交がマスターベーション的」と評価するのは、あまりに失礼な話だ。

 現実には「隣国民の総てがせん▢りコキ」であって、ムン政権だけではない。

 

 まずは敗戦時には日本の一部だったのに、何故か戦勝国のつもりでいるところ。現実には彼らの言う「戦犯国」の一員だ。

 皿一枚の出土も無いのに「四大文明」に自らを足して「五大文明」と称するところ。

 根拠もないのに、世界中のよさげなものに「起源」を主張するところ。

 スポーツでの座り込みのように、意に添わぬ結果には、とにかく駄々をこねるところ。

 これが「せん▢りコキ」でなくて何?

 

 この報道は、終始、あちら目線だった。

 「迎賓館で会談」だと?

 手ぶらで来るヤツなのに、何故か自分から「土産を持たせろ」と言っていたが、さらに「賓客としてもてなせ」と?

 五輪中にそんな暇はなし。もしそんなことを本気でやるなら、菅総理は「おめでたい」という評価を受ける。

 

 さて、読売の意図は何だろう。

1)この先、あるいは目先の商売を考えて、ふかした。

 日本の反応を見るために、あちら政府の意向を伝えた。

 ニュースソースの記述が全くないので、作文であり炎上商法。

2)訪日つぶし。「徴用工」も「公娼(自称元慰安婦)」も「終わった話」というのが、日本政府唯一の見解だ。この件で話し合うことはない。

 この報道を読めば、日本国民が反発するし、来日すれば旭日旗で迎える。

 それが見えれば、必然的に会談は無くなる。

 

 ここで手を緩めたら、この一年に何の成果も無かったことになり、次の選挙で自民は大負け、維新が勝つ。よって、次は自公維の連立になる。

 たかが中学生並みの、「せん▢りコキ」相手にがたがたするなど、アリエネー話だ。

 要するに「飛ばし」記事ということ。

 

 隣国人が極端に「せん▢り好き」なのは、彼の国以外の者は皆知っていたことだ。

 相馬公使は既成事実を言葉にしただけ。

◎『怪談』 第6話 「寮に出る幽霊」

◎『怪談』 第6話 「寮に出る幽霊」

 「怪談」シリーズを再開することにした。

 

 若い時に一年だけ寮生活をしていた時期がある。

 そこは新築の三階建ての寮だったのだが、そこには最初から幽霊が出た。

 私自身も実体験がある。

 

 その寮は三階建ての各階に三畳の広さの小部屋が30数室あったから、寮生は全体で百名前後だったのではないかと思う。

 勉強が目的なので、部屋にはベッドと机、小さいロッカーがあるだけだ。

 食堂があり、朝夕の二食は提供され、風呂は共同の大浴場がある。

 夕方八時を過ぎると、入浴は終わりで、各室でテレビを観ることも、他の寮生と会話をすることも禁止。要するに「とにかく勉強すること」という体制になっていた。

 私はその寮の二階の一室にいたが、山の斜面を崩して造成した建物なので、地面(山の斜面)までは二㍍程度だった。

 

 まだ五月頃だったと思うが、夕食の後、部屋に戻り、ベッドに横たわると、そのまま寝入ってしまった。

 小一時間くらいは、そのまま熟睡していたが、「声」に半分起こされた。

 窓の外から「かやかや」と声が聞こえて来る。

 「また屋上で騒いでいるのか」

 部屋での雑談を禁じられているので、屋上に行き、そこで話をするついでに酒を飲む。

 そういう寮生が数日前に見付かり、問題になったばかり。

 「性懲りもなく、未成年なのにまた酒飲んでいるわけだ」

 再び眠ろうとするが、よく寝付けない。

 そのうち、また「ぶつぶつ」と呟く声が聞こえて来る。男の声だ。

 目を瞑っていたが、声が気になって眠れなくなる。

 

 ついに完全に目が覚めてしまい、両眼を開いた。

 私は頭を窓に向けて寝ていたので、すぐ頭の上に窓ガラスが見える。

 その摺りガラスの上の方に、白くぼんやりした顔が見えた。夜なので外は暗いのだが、建物に沿って街灯があるから、その光が反射していたらしい。

 「うわあ。声を出していたのはコイツだ」

 とんでもない話だ。

 他の寮生が私をからかおうと窓の外に立ち、声を掛けていたのなら笑えるが、そんなことはあり得ない。この寮の部屋の窓には、手摺りも桟もついていないから、足場にするものが一切ない。

 要するに、この男は「空中に浮いている」ということ。

 

 そこからは、一切、体を動かせなくなった。

 いわゆる「金縛り」だが、コイツはほとんど半覚醒状態の時に起きるものだ。

 この時の私はもはやすっかり目覚めていた。

 

 それから、どのくらいの間だったのかは分からぬが、私はその男の顔を見ながら、ぶつぶつと嘆く声を聞いていた。

 「どうしてこんなことになったのか」

 「あの時、俺は※※※を※※※していればよかった」

 みたいな「悔い」や「嘆き」の断片的な話をずっと聞き続けた。

 長い時間が過ぎ、ある瞬間に手足が動かせるようになった。

 そこで、男から逃れようと、ドアの方に向かおうとしたのだが、あまりの恐怖に腰が立たない。

 (人生で腰が立たなくなったのは、中学生の時に「山伏」に立たれた時と、この寮にいた時の二度だけだ。)

 そこで、私は床に両手両足を着いて這いつくばり、ドアの方に四つん這いになって進み、部屋から逃れ出た。

 

 まだ午後九時頃だったので、目覚めている寮生も多く、洗面所で息を整えていると、幾人もがそこを訪れた。

 こんな話を他人にすると、「変人」と思われかねぬので、私は誰にも話さず、恐怖心が和らぐのを待って部屋に帰った。

 こんなことがあったので、それからは、夜中じゅう起きて勉強をし、周囲が明るくなってから眠るようになった。

 

 以上は前振りで、これからが本番だ。

 こんな経験をしたのが私だけなら、「世間に時々あること」の範囲の話だ。

 成長期だったし、心身のバランスが崩れているから、いろんな経験(妄想)を自ら創り出す。

 だが、同じような経験をした者が他にもいたようだ。

 六月の終わりに、百数十人の寮生のうちの一人が自死した。なにも書き残してはいなかったのだが、日頃から「蓄膿症でよく勉強が出来ないと悩んでいた」と話していたので、きっとそのせいだと皆が噂した。

 夜半に感電死したのだが、見つかったのは翌日の午後だ。遺体は死後硬直で捻じれていた。救急車を呼ぶまでもなく、明らかに亡くなっていた。

 部屋で棺に納められ、玄関から出棺したのだが、その時の私は棺を眺めながら「本人の意思で自死したのではないのではないか」と思っていた。

 息子を失くし、親御さんはさぞ嘆いただろうと思う。

 

 異変は夏になっても続き、複数の寮生が「あれ」を経験していた。

 私のように「窓の外に立たれた」者も居れば、「ドアの前に立たれた」者も居る。

 

 七月末のある日のことだ。

 私は他の寮生の部屋で話していたから、まだ午後八時になっていなかった(八時以降は部屋外活動禁止)。

 すぐ向かいの部屋から「ぎゃあああ」と大きな声が響き、それに「がっしゃーん」と窓ガラスが割れる音が続いた。

 何があったのかと出てみると、向かいの部屋の寮生が、もう一人の脚を見ている。

 その寮生の膝下からは血がだらだらと流れていた。

 部屋の主に事情を訊くと、「隣のコイツがガラス窓を蹴破って、俺の部屋に飛び込んで来た」とのこと。

 それを聞き、私はすぐに「ドアの方に立たれたのだ」と理解した。

 幽霊が目の前に立っているが、逃れる場所は窓しかない。そこでその寮生は窓を開け、隣の部屋の窓ガラスを蹴破って移った。

 脚はその時に怪我をしたわけだ。

 怪我をした寮生は、「大丈夫か」と声を掛けても、一切答えず、ガタガタと震えている。

 パジャマが濡れて居り、小便を漏らしていたのが明白だ。

 

 隣の寮生は「あれ」を経験したことが無かったようで、「夢でも観たのか」と声を掛けていた。

 「夢」だと(笑)。世間でいう「金縛り」程度の話など、まるで比較にならない。

 現実に「そこにいる」という確信がある。

 そもそも、その寮生が異変に気付いたのは目覚めている時だ。机に向かって勉強をしている時に、ふと気配を感じ、後ろを振り向いたら、そこに「あれ」が立っていたのだ。

 

 当時、他の寮生にも話を聞いたが、少なくとも十数人から二十人くらいが「あれ」に会ったようだ。

 当時の噂はこう。

 「この寮は、前に山全体が墓地だったのを半分崩して建てたものだ。恐らく寺が破産して、借金のかたに取られたのだが、その新地主が墓所の移転の段取りをきちんとやらなかった」

 世間の印象とは違い、病院と墓地は幽霊が最も出難いところだ。病院には執着する要素が無いし、墓地は眠るところで、双方ともそこに念を残す場所ではない。

 ちなみに、私は体感的にそのことを知っていたので、郷里に帰った時には、夜中の十二時頃に独りで墓参していた。怖いのは墓地ではなく、周囲が暗いので躓いて転んでしまうことだ。

 だが、然るべき手続きをせず、墓地を崩したなら、話は別だ。

 眠りを妨げられれば、死者だって怒ろうというものだ。

 

 さて、怪談の本題はこれからだ。

 どんな状況でも、それが毎日起きていることなら、人は次第に慣れてしまう。

 この年が終わる頃には、すっかりこの状況に慣れてしまい、私は夜中にはほとんど起きていた。もちろん、時々、周囲の気配を確かめる。

 ざわっとした時には「今は勉強しているから止めてくれ」と言葉に出して言う。

 存在を意識して、人と同じように対処すると、案外、幽霊は悪さをしない。

 そのことに気付いたのは、この頃のことだ。

 

 他の寮生も概ね慣れ、夜中に脱走した。禁止事項だから、舎監に見付かればどやされるのだが、窓から出て、墓石の間を通って行けば、まずは見つからない。

 街道に出ると、ラーメン屋の屋台が車を停めていたから、ここでラーメンを一杯食べる。

 これが一部の寮生の楽しみだった。 

 寮生(未成年)の中にはきっと酒を飲んだ者もいただろうと思う。

 

 さて、本当に怖い話はこれからだ。

 その年の冬にある事件が起きた。目の前の街道筋に店を出していた屋台の店主が人を殺し、何を思ったか、その被害者の手首をスープの出汁に使った(「手首ラーメン事件」)。

 恐らく処分に困り、証拠隠滅のためにそうしたのだろうが、気付かずにそのラーメンを食べさせられたものが複数いる筈だ。

 よって、その報道が流れた時に、一部の寮生の間で大騒ぎになった。

 それが「※※街道の※※市の※※交差点近くに出ていた屋台」と、テレビが伝えたからだ。

 「もしかして、俺たちが食っていたのは・・・」

 事実を知りたくない気持ちもあるが、私はそれを詳細に調べてみた。

 すると、その手首事件の屋台は、寮のすぐ前ではなく、数百㍍離れたところに出ていた屋台だった。

 「よかった。本当によかった」と胸を撫で下ろす瞬間だ。

 

 寮を出た時には、やはりほっとした。「これでもう窓ガラスの外に立たれずとも済む」ようになると思ったからだ。夜にもゆっくりと眠れる。

 その後、その寮の生活のことは「あまり思い出したくない記憶」として、数十年間も忘れたままだった。

 数年前、「ウン十年後のあの場所はどうなっているのか」と疑問に思い、あの地を訪ねたことがある。

 「あの時の忌まわしい記憶」から完全に解放されることと、駅前にあった町中華が残っていれば、その店で「天津丼」と「海老炒飯」を食べるのが目的だった。

 ※※街道沿いに歩いたのだが、しかし、あの寮があった辺りには、大きなマンションが建っていたようだ。墓地の山半分もすっかり無くなっていた。

 聞くところによれば、あの後、しばらくしてその寮は売却され、ある専門学校の寮になった。

 その後二十年くらいして、解体されたようだ。

 駐在に聞いてはみたが、既にそのことも今では分からない。

 町中華があった辺りには、別の店が建っていた。

 

 以下は、実際にあの地の近くを通った時の感想だ。

 今は墓地も寮も無くなり、巨大なマンションが建っている。

 だが、前ほどではないにせよ、あそこでは今も幽霊が出るのではないかと思う。

 いざ拗(こじ)らせると、そこを浄化するのは、一筋縄では行かなくなる。

 

 その地にまつわる怪談を探したことがある。寮があった頃には数例あったが、その後の話を検索することが出来ない。何も出て来ないのだ。 

 怪談は「結末がハッピーエンド」だから他人に話せるわけだが、仮に「語る口が無くなってしまった」のなら、世間に広がることもない。

 また、この地に住むようになり、いち早く「あれ」に気付いた者は、さっさと逃げ出したと思う。

 私の同期の寮生は、百人くらいのうちの十数人が経験したから、一般の人でアンテナが張っている人の割合もそれくらいだと思う。その他の人は異変に気付かぬのかもしれん。幽霊は「ひとを選んで現れる」と言うが、人の方に検知できる人と出来ない人がいるのかもしれん。存在に気付かなければ、「いない」のと同じことだ。

 私の経験した状況で、仮に最初の「声」に気付かぬのであれば、きっと朝まで眠ったままだ。

 

 私は「最寄りの駅に降りるのも避けていた」時期が数十年とあるが、今はその駅が平気になった。

 だが、あの地に踏み入れるのはやはりお断りだ。

 見ず知らずの者ならともかく、私は相手にとって「旧知の者」だ。いざ目の前にすれば、わあっと寄って来ると思う。そうでなくとも、今は頻繁に持ち帰るようになっている。

 

 物語として、スッキリしないのは、これが実体験だからということ。

 今はある程度対処できるようになっているが、何十何百と懲り固まっているのでは、さすがに分が悪い。

◎夢の話 第971夜 沢山の手に掴まれる

◎夢の話 第971夜 沢山の手に掴まれる

 18日の午前三時に観た夢です。

 

 目前の霧が少しずつ収まり始めた。これまで眠っていたのだが、徐々に目覚めようとしているらしい。

 俺は茣蓙のような敷物の上に仰向けに寝ていた。

 

 ゆっくりと感覚が戻りつつあるのだが、手足が動かない。

 まるで誰かに両手両足を掴まれているような感触だ。

 そこで無理やり視線を下に向け、状況を確かめようとした。

 

 すると、現実に俺の右足を太くてごつい手が掴んでいた。

 左足に目を遣ると、こっちも同じだった。

 「となると・・・」

 さらに首を起こし、腕の先を見ると、やはり俺の手首を誰かの手が掴んでいる。

 床から手が出て、俺を掴まえていたのだ。

 「ややコイツは不味いな。こいつらは到底、人間ではない」

 そのことに気が付くと同時に、一斉に数十もの手が湧いて出て、俺の体の隅々を掴んだ。

 

 「これは金縛りとは全然違う。一つひとつにはっきりした意思がある」

 どんな理由でこんな事態になったのか。

 これでは、程なく地獄の底に引き込まれてしまいそうだ。

 

 「淡州。たんしゅううう。俺はお前に殺された者だあああ」

 その声で、俺は漸く理解した。

 「この一年で俺は幾度も合戦を経験し、敵の兵士を幾百と殺している。あるいは千を超えて居るやも知れぬ。そ奴らが冥土に行けず、俺のところに集まって来たのか」

 周囲から「おお」とも「ああ」ともつかぬ呻き声が沸き上がる。

 

 夢を観ていた本物の俺の方は、この展開にほっと撫で下ろした。

 「ああ良かった。これは現実ではないや。俺は小説の筋を考えていたのだ」

 既に最終章で、釜沢館が大光寺左衛門に攻撃される前の日まで来ている。

 釜沢淡州は上方軍や南部軍に敵対する意思を示していなかったのに、「状況と展開のあや」のために滅ぼされてしまう。

 この描写を書くのが難しいから、寝ている間もあれこれ考えるわけだ。

 

 ところで、現実にこれと似た体験をしていると、「また来たか」と見なしてしまう。

 「あの世」を想像や妄想の産物と見なして、笑っていられるのは、「死神が眼の前に立つ」その瞬間までのこと。

 殆どの人は、「死後の存在が現実にある」と理解した直後に、この世を去る。

 実際に「死神」に対面したことのある者は、それでは取り返しがつかぬことを知っているから、一つひとつの出来事を「あの世」と関連付けて考えてしまいがちになる。

 

 最も戦慄するのは、あの世の存在(幽霊)は、「まるで人間臭くない」ところだ。

 怨念とか恨みとかは生きている者の理屈だ。

 幽霊の心の中は、深くて暗い穴のような闇だ。人の「怨念」や「恨み」は「出す」ものだが、幽霊のそれは「引き込む」ものだ。

◎ふかし報道

ふかし報道

 TBSの金曜午後6時のニュース。

 日韓の外交筋の話として

 「『韓国のホワイト国復帰』と『Gソミアの安定的保持』の交換条件で、文大統領の来日を協議中」

 

 週末で土日は加藤官房長官のコメントが無いから、「言下に否定されぬ」ことを前提にふかしたらしい。

 耳目を集めるための炎上ねらい報道のよう。

 

 そもそも、この交換条件で、日本に何のメリットが?

 

 Gソミアが外交カードになると思っているのは韓国だけで、日本にとってはどうでもよい話。

 また、つい数日前に、文氏が「国産化に成功した」とホルホルしていたのだから、仮にそれが事実なら、ホワイト国認定は不要のはず。

 おまけに、選挙前に1ミリでも譲歩すれば、自民党は下野する。

 要するに、韓国側の希望願望を代弁した、というもの。

 

 先日、産経が「日韓協議」について報道したのは「来日潰し」だった説が高いが、この報道はそれとは違うと思う。

 メディアの作り話は、韓国の専売特許かと思っていたが、やはり日本も変わらない。

 「外交筋の話」ってのが、既に作り話の証明だ。

 ネットであれこれ見聞きしたものをそのまま作文して記事にしてしまうのは世界共通の傾向のよう。

 報道は「取材に行く」のが原則だと思うが、事実関係に類する(検証可能な)情報が何一つ含まれないところが、「作り話」「観測気球」らしい。

 

 ちなみに、

 「徴用工」は1965年に終わった話。

 「公娼(自称慰安婦)」は2015年委完全解決済み。

 既に政治問題でも外交問題でもなく、韓国の国内問題だ。 

 解決済みならそもそも「問題」など存在せず、歴史は歴史学者が研究するものだ。

 協議体がどうの、という話もナンセンス。解決済みのことを協議する必要が無い。

 これ以外に落としどころは無い。

 

 何年か前に財政危機にあえぐギリシャが唐突に、ドイツに「戦後賠償」を求めた時の、独メルケル首相の対応を手本とすべきだ。

 「一切、対応しない」と明言すればよい。

 

 そもそも、自分は何一つ手土産を持参するつもりがないのに、文氏周辺は

 「俺を招待しろ」

 「歓待し御馳走を食わせろ」

 「事前に手土産を示せ」とか、言っている。

 これで、その要求に応えようと思うのは、2F氏周辺だけ。

 これは差別ではなく批判なので念のため。詐欺師に対し「理解」は必要ない。

◎人影(589)の補足

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令和三年七月十四日撮影

◎人影(589)の補足

 人影を少し拡大し認識しやすくするとこうなる。

 目視では、もちろん、何ら異変が見えないが、「誰かがガン見している」という感覚がある。こちらの目で見えずとも、相手から見られているので、視線を感じるということ。

 

 写真では「景色が歪んだり、色が変わったりする」ことで、「何か」がいることが分かる。

 人のかたちをしていない方が多いのだが、きちんと姿を出し自分を晒してくれる方がむしろ対処しやすい。

 ま、後をついて来るかもしれぬが、単純に助けて欲しいだけなので影響は無い(悪意無し)。

 

 隣にも別のがいそうだが、はっきりしない。見えたものと実態が違うことはよくある。ほとんどの場合は、自我を存続させるために、同化・合体を繰り返しているので、一人に見えてもひとつではない。

 複数を取り込んでしまうと、今度は同じ画像の中の二か所に同じ者が現れることがある。

 二体に見えるが、実際には同じ者だ。

 

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平成三十一(令和元)年三月二十二日撮影

 参考までに、すっかり寄り付かれた状況を示す画像を添付する。

 これは時々掲示しているので、見たことがあると思う。

 この時は外出の後、神社に参拝したのだが、どこかで「女」を拾っていたと見え、ガラスにその姿が映った。

 夕方でもあり、周囲には誰もいない。これは証明するまでもなく、「女」の身長が二㍍くらいあるのを見れば「生きた人間ではない」と分かる。

 白い着物を着た「女」が背後から私に覆い被さっている。

 この白い着物は納棺の時に着せられるような、いわゆる死に装束だろうと思う。

 姿が異様なのだが、見た目同様に一体(一人)だけのようだから、おそらく亡くなってそんなに経っていない。(複数が重なって一体に見えることが多い。)

 死後まもなく現れたのなら、事件事故ではなく、病気が原因で亡くなった。

 ちなみに、怪談では「自殺した者が・・・」「事故死した者が・・・」すぐにこの世に現れるのだが、現実にはほとんどない。自死・不慮の死の場合、多くは何年間か暗闇の中にいる。一方、自然死した者は、死後しばらくの間、この世に留まることが多い。もちろん、期間は人によって違うが、心が鎮まれば先のステップに進んで行く。

 

 こういう幽霊に特に悪意はなく、「助けて欲しい」「きっと助けてくれる」と思って縋り付いている。このため、こういうケースではさしたる悪影響はない。

 もちろん、「何となく傍に誰かがいる」という実感があるし、それを無視していれば、相手は「自分を見て欲しい」という理由で、肩や背中を重くしたりする。

 だが、それと気付き、相手を「慰める」ことを心掛けると、自然に去って行く。

 慰められぬ時には、そう言って「自分には助けられない」と断ること。

 この「女」は割合長い間傍にいたようで、半年くらいに渡り、幾らか「しるし」を残した。

 

 ダメなのは、恐怖心から「悪意の無い相手」を攻撃することだ。

 幽霊は「負の側面」ばかり強調されるが、例えて言えば「学校が違うだけ」。

 「幽霊は恐ろしいもの」という考えは、発想もアプローチも誤りだ。

 人間には、一部に粗暴な者がおりイカサマ師もいるわけだが、そのことで「人間はロクデモない存在」と見なすのは早計だ。幽霊もそれと同じ。

 常に敬意を持って接するようにすれば、殆どの場合、何も起きない。

◎悪意を抜く(589)

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令和三年七月十四日撮影

◎悪意を抜く(589)

 自分の腹の中に悪意が満ち溢れて来たので、そろそろ「ガス抜き」が必要だと思う。

 この辺で抜いて置かぬと、毎日、「誰かに祟りを与える」ことを念じてしまう。

 何事も中途半端はダメなので、「いよいよ」というところまで待っていた。

 

 最初にN湖を訪れる。

 一時は、その都度、自分を見つめる「食い入るような視線」を感じたものだが、今はそれはない。はるか遠くから、ボソボソと話し掛ける声も聞こえたが、至って静か。

 「これが当たり前の状態だ」と痛感する。もちろん、他の人にとっては、ということだが。

 何も無いと思っていたが、帰宅して居間で寝入ってしまった時に、夢の中に「窓に大きな煙玉が出ている」場面が出て来た。

 目覚めてこれを書いているが、N湖のレストハウスでは、私の左後方に人影が立っていたようだ。はっきりしないのだが、それだけ弱いということだ。

 

 「私は、生きている人々の中に入ればただのオヤジジイだが、死者の立場から見れば希望そのものだ。私以外にその存在に気付き、拾い上げてくれる者はいない」

 それなら、その務めを果たすべきで、私事に怒っている場合ではない。

 ひとが生まれてから死ぬまではほんの一瞬だ。死んでからの方がはるかに長い。

 そんなことを考えつつ、しばらく雨を眺めた後、神社に参拝した。

 

 この時期、すこぶる気が楽なのは、「ほとんど何も起きない」ことが分かっているからだ。

 安息の日々はひと月からひと月半ある。

 一年の中で、今だけがほとんど「あの世」を感じずにいられる。

 だが、程なくその休息も終わる。

  自身の姿を見ると、徐々に腕が膨れて来たようだ。

 例年は右腕だが、今年は左腕から始まるらしい。

 してみると、右左は関係ないのか。

 

 姿かたちは見えぬが、どうやらひとつ連れて来たらしい。(女だと思う。)

 左腕はその影響なのか。

 この日の夜に眠るまで、「まったく何もない」と見なしていたが、そうでもない。

 

 気が付くと、悪意がきれいに抜けていた。

 「親も兄弟も、子も孫も総て刈り取れ」

 誰かに向け、そんな祈願(呪いとも言う)をせずに済むようになるから、信仰は必要だ。

 ま、私の場合は「オレ教」ではある。 

 

追記)肘から先の腕が透けていて、後ろにあるシャツの袖(肩から肘の部分)が映っている。なるほど、ちょうど肘の部分に煙玉が重なっていたらしい。

 煙玉や幽霊が間に入ると、人体が透けてしまうことはよくある。この世とあの世は、光学的に互いを打ち消す効果があるようだ。

◎自分を宥める  続き

◎自分を宥める  続き

 あの世とこの世のルールは違うので、誰かを呪ったところで、概ね何も起きない。悪縁が力を発揮するのは、死に間際か死んだ後のことだ。

 当人が死ぬ直前になった時に、はっきりとした姿で現れる。

 公文書の偽造を指示し、その責任を職員に負わせたサガワさんの前にも、必ずアモンが現れる。

 その意味では、今、「イリスさま。あの者を懲らしめて」と祈願したところで、何も起きない(この世的な意味では)。

 だが、常に例外はあり、いざ悪縁が踏み込んでこの世に関わったら、二十三十では済まない「刈り取り」が起きるだろうと思う。

 「親も子も孫も、親戚や友人知人まで」一切が刈り取られる。

 でも、そんなことはまず起きない。

 

 そうなると、ひとまず「イリスに願っても何も起きないから大丈夫」と思うのだが、心の片隅では「起きる可能性もある」とも思う。

 私は現実に悪縁たちの姿を見ているので、なおさらそう感じる。

 それも加えて、総てが因果応報だ。

 ほとんどの人が死後について真剣には考えず、目を伏せているが、死はただの折り返し地点に過ぎない。

 

 あるいは天秤秤の支点と言ってもよい。

 恵まれた人生を送った者は、そのツケを死後に払うし、不遇を堪え、感情に流されることなく踏み止まった者には、死後に安寧が待っている。

 中途半端に過ごした者は、幽霊と言うこれまた中途半端な姿のままで、それなりの期間を過ごすことになる。

 

 さて、キレそうになる自分を押さえるには工夫が必要だ。

 ま、誰かを呪うより、侍の首を刎ねる場面を書くことで気を紛らわせるほうが無難だと思う。

 いずれにせよ、どういう手段を取っても、キレて暴れてしまうよりはまし。

 

 ちなみに、いつも私のすぐそばに立っている「女」を気にくわぬ相手の許に送り込めればそれで十分な懲らしめになると思う。

 ホラー映画みたいな大仰な仕掛けではないのだが、必ず傍にいて、自分を見ている実感がある。もちろん、思い込みではなく、「実際にそこにいた」という証拠も残す。

 これが毎日続くと、心の負担がみしみしと増える。

 これを一度でも味わってみろ。