日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎霊界通信 「追加観察 ガラス窓の中の世界」他

◎霊界通信 「追加観察 ガラス窓の中の世界」他

 気になることがあり、先日の飯能から日高の記録について再観察することにした。

1)ガラス窓の中の世界

 神社や寺社では、ガラス窓に自分の姿を映し、それを撮影している。

 ガラスは、光を透過する波長光と反射する反射光に分ける効果があり、反射する光のは、あの世(幽霊)を可視化しやすくする。

 景色にも影響があり、目視するものとは別の配置になることがある。 

 最初の三枚は、高麗神社の神殿前から境内を撮影したものだ。

 構造物の配置がこれで分かる。

 最後の画像は、神殿の窓ガラスに映る境内の景色を撮影したもので、ガラスに反射した景色なので左右が逆転する。直射した画像とは、配置が左右逆になる。

 遠近の関係が崩れているし、掲示板に至っては、階段の脇にあるものだ。どうやっても神殿の上からは見えぬものが画像には見えている。

 光は必ず直進する筈だが、光が「曲線の軌跡を辿っている」のでなくては有り得ぬ光景だ。陰に隠れているものが映っている。

 

2)左肩を刺されていた

 帰宅してから、やたら左肩が痛むので、もう一度画像を点検した。

 すると神殿の前で撮影した最初の画像に、左の肩の後ろに「黒い手」が出ていた。

 尖ったものを私の肩に突き立てているような構図になっている。

 周囲の景色が著しく歪んでいるから、亡者(幽霊)に取り囲まれていることが見て取れる。煙玉が沢山出ており、これが光を歪めているわけだが、前後の景色には、この黒い手と錯覚しそうなものはない。

 かたや、右肩には光が当たっているが、盛り上がって見えるので日光だけではないようだ。視覚的には不鮮明だが、当人(私)的には、こちらは右手のような感触がある。

 もちろん、今のところははっきりとしたことは言えない。

 右後ろに「巫女さまが立っている」のは確実だが、この女性は左手を私の肩口に当て、右手を脇腹付近に当てていると思う。

 以降はあくまで解釈に過ぎぬだが、この時の私はかなり不味い状況にあったようだ。

 亡者の群れには、悪意を抱えた者が沢山おり、その中には危害を加えようとする者もいる。そういう者の一人が一撃を加えようとしたので、巫女さまが現れたのではないか。

 刺されたのが心臓でなくて良かった。今は左肩が酷く痛むが、命に別状はない。

 いつもあの世(幽界)を注視しているので、その世界の住人には快く思わぬ者もいる。これは生きている者の感情と同じだ。さしたる理由なく他者を嫌うことはよくある。とにかく癪に触るということ。

 なお生きている人も、私のことがどうにも好きになれぬ者が六七割はいると思うが(大勢だ)、これは背後にいる亡者たちの影響だと思う。

 これは仕方ないし、遠ざかっていてくれた方が助かる。こちらから見れば、ひとりの人と向き合うのは、背後にいる者とも付き合わねばならないことで、余計に疲れる。既に「死にかけ」なんだし、この世の仲間や友だちは必要なし。その上、私に関われば「障り」が降って来るかもしれん。どうか近寄るな。話題にもするな。禁足地ならぬ禁足人でよろしく。

 

 あの世は「気」(霊気)で出来ている。普段は意識(感情)で、霧のような煙のような状態だ。だが、精神だけの存在ではなく、物的基盤がある。このため、状況により実体化して人の姿をとることもある。

 よりよく例えられるのは「ゼロ(0)」で、何ひとつ関われぬ存在だ。足しても引いても変化がないし、掛けたり割ったりはそもそも出来ない。

 だが「実際に存在している」し、扱いを間違えると「総てが無に帰する」。

 「霊」とはすなわち「零」のことを指す。

◎病棟日誌 悲喜交々 3/12「デマゴーグ噴出」

病棟日誌 悲喜交々 3/12デマゴーグ噴出」
 病棟では退屈なので、最近はネットサーフィンで過ごす。
 ネット界では、メディア以上にデマを撒き散らす者が多い。
 パターンはいつも同じ。
 最近増えているのは、「生活保護叩き」。
 大体の話はこう。
 「夫婦と子供二人で生活保護を受け、月に五十万円貰っている者がいる。おまけに医療費がただ。働いているものより楽に暮らしている。おかしい」
 だが、よく聴いてみると、具体的な話がまるで出て来ない。
 叫んでいるのは、「生活保護」「五十万円」だけ。
 あれあれ。実態を調べて言っているのか?
 「生活保護」は「世帯十万円前後」が基準で、子ども分の割り増しがあったにせよ、「四人で五十万円」にはならない。もし受給額が事実なら、「生活保護以外の手当」があるということだ。
 子どもに障害があるとか、別の理由だ。
 だが、それはあくまで「別の理由」で、「生活保護」ではない。全然別の視角のものを一緒くたに言っている。
 要は「生活保護受給者」=「働いていない者」、実際には「働いて(も)いない者」というフレームで眺めているということ。
 前提から差別的な匂いがプンプンする。

 じゃあ、「世帯で五十万貰っているという者は全国で幾世帯あるんだよ?」。

 そういうのを調べてから言ってるのか? ま、調べちゃいない。
 実際に、病気になり失業したことなどで、生活保護を申請しようとしても、基準があり、なかなか受給には至らない。
 ローンが幾ら残っていようと、自宅を所有していれば認められない。
 車を持っていると、「余裕がある」と見なされるので、これも不可。一定の資産があれば、生活保護の対象にはならない。
 さらに「働けぬ事情」が必要だ。賃貸に住む世帯のお父さんが急病で働けぬようになると、ひと月ふた月後に子どもたちは生死を分かつ危機が来る。
 「月に五十万」はそんな危機的状況の積み重ねから出来ている。ま、この話自体、本当かどうかは分らない。
 また、仮に事実として確認出来たとしても、レアなケースであることは確かで、これが一件二件の話なら、制度自体を云々言う話ではない。
 実際には何件発生しており・・・、という件(くだり)がまったく無く、「生活保護が五十万貰うのはおかしい」だけを連呼する。
 ここで、はっはあん。メディア報道を観たレベルでものを言っているのだと察しが付く。自分で実態を調べちゃいない。
 時々テレビが扱うのは、「生活保護受給者がパチンコにそれを使う」みたいな話だ。耳目を集めるために奇異な話をあげつらうわけだが、ほぼネガティヴキャンペーンと同じ。
 そこには、「行政(国)が与えてやってるのに」という認識の流れがある。要は「働いてもいないヤツが俺たちが働いて払った税金をパチンコに浪費している」という見方だ。
 発想の出発点が「自分たちは払っている」が「こいつらは働かずに貰っている」というものだ。それなら俺たちは損をしている、という流れになる。
 セーフティネットはそもそもそういう考え方ではなく、「誰もが危機に直面するかもしれぬから、お互い様で助け合おう」という視角によっている。
 自分も「急病で働けぬ境遇」になるかもしれない。なら、今は他者を助けて、自分にそれが来た時も助けてもらう。そういう発想だ。
 今は元気で問題なく働けていても、年は取るし病気にもなる。誰もが必ず弱者の立場に置かれ死んで行く。

 この視点では「一定の基準を設けて、それに適合したら手を差し伸べる」やり方が簡便だ。個別のケースを詳細に吟味するのは専門機関(行政)で、その基準に達したら保護を与える。だから今の制度がある。

 以下は例え話。
 生命保険では「死亡時に遺族に保険金が支払われる」。
 これは、どういう状況でも「加入者が死亡した」という条件を満たした時だ。これには、掛け金を「何年払った」かは関係がない。死んだかどうか。
 この決まりに対し、「俺は二十年間掛け金を払っているのに、世間には、加入後一年で保険金を貰っている者がいる。掛け金を払った金額が違うのだからおかしい」と言っても、ほとんど意味がない。生命保険の基盤は、「働き手が亡くなった時に、家族などが直ちに路頭に迷わぬように支える」という視角によるもので、基準は「死んだかどうか」ということ。
 そもそも、「おかしい」と叫ぶ者は、「加入者が死んでいる」事実を無視している。
 冒頭の「生活保護世帯で五十万貰っているのはおかしい」という主張はこれに近い。 

 生活保護受給世帯の大半はその金額を貰っていないし、それ以前に事情(困難)がある。これは一律の眺め方をすることが出来ず、個別のケースを見る必要がある。

 「NHKはおかしい」と叫ぶだけで、国会議員になった者がいるから、国民の一部に蔓延する「何となく不満」と言う気分を助長することで「ネット受け」を取りに走る者が増えた。
 だがよく観察すると、制度自体をよく知らないで言っていたり、具体的なケースについて全く言及しない。要はメディア情報レベルでものを言っている偽物ということ。

 こういうのは、「回転すし店で醤油差しを舐めて見せる者」と大差がない。

 「生活保護叩き」と同じくらい、「透析患者叩き」も起きている(身近な話だ)。
 今日観たのは、「透析患者は月に三十万の医療費を使う。それでいて二百万から三百万の年金を貰えるのはおかしい」みたいな話だった。
 よく言われるが、「月に三十万」は医療費総額だ。何故透析患者の時だけ医療費総額で言うのか。風邪を引いて病院に行けば、自己負担額は五千円くらいだが、総医療費はその10/3だ。ざっと一万六千円くらい。
 盲腸の手術を受ければ、窓口で払うのは十数万だが、総医療費は百万円だ。抗がん剤の一部は一回二千万から三千万のものがあるがこれも医療保険適用対象なので高額医療費補助の対象となる。窓口では概ね十五万くらいか。薬一回で透析治療の七八年分だ。

 「癌患者は大半が再発する。それなら治療が無駄だから保険適用を見直すべきだ」

 こういう理屈と大差ない。
 人工透析に入ってから死ぬまでの期間は医療統計で眺めるよりかなり短期で、高齢期にそうなった患者ならアベレージは数か月から半年だ。また、癌や心臓病などで死ななければ、いずれ多くの者がここを経由して死ぬ。要は皆が必ず通る「死に至る道」のひとつ。
 統計に出ぬのは、「主たる死因」が心臓など別の病因に選り分けられることが多いからで、この場合、表には出ない。最初から腎臓(だけ)が悪い患者なら、透析開始後十年二十年生きるかもしれん。腎不全に伴い動脈硬化が進むことで心不全で死ねば死因は「心疾患」になる。これで統計上の平均余命が長くなる。


 私自身が腎不全になり、一時は「月に三十万の医療費を使う立場になり申し訳ない」と思っていた時期があったが、調べてみると、「死ぬまでの医療費」であれば、他の病気と大差がなかった。
 毎月の自己負担レベルで言えば、総医療費の3割だから9万だが、このうち1割は患者が実際に払っている(市区町村により、これも申告すれば補助が出る場合がある)。 

 要は「月に6万円」が「病院代」の「普通の人より余分に国に払って貰うサイズ」になるが、これは「何かしら持病のある者」の払う医療費より少し多いくらい。
 腎不全になる前、四十台の頃にもひと月に3万円くらいの「病院代」は払っていた。これは心臓に持病があったからだが、高齢者になればこれくらいはざらにいる。

 三十台四十台の未病の者から見れば、どれを見ても「医療費がやたら多い」と感じるわけだが、「オメーもいずれ必ずそうなる」。

 自己負担月三万円は医療費総額なら十万円の規模だ。三十万が確かに多いのは事実だが「不当」と騒ぐぐほどではない。何故なら透析患者になってからの生存期間(余命)がやたら短い。日に30人が治療を受ける病棟では、一年経つと患者の顔ぶれがガラッと変わる。大半が前年のうちにこの世とおさらばしているということ。

 となると、「透析患者は月に三十万の医療費を使う。それでいて二百万から三百万の年金を貰えるのはおかしい」は、それこそ失笑レベルだ。
 医療費と年金は関係がないし、そもそも年金で二百万円貰える個人は少ない。厚生年金で十三万くらい、国民年金は六万弱。
 世帯で眺めると、夫婦の状況(共稼ぎや配偶者が主婦・夫)によって異なる。資産状況にもより、資産を持っていれば年金支給額を減らされる。 「夫が勤め人で、奥さんがぎりぎりパート」なら世帯二人分で年金を月二十万円ちょっと貰えるかもしれぬが、前段の視角が個人なので、論理が成り立たない。それに「それでいて」とは、障害者には年金を与えるなってことなのか? オメー、気は確かなの?

 (ちなみに余談だが、裏金を得ている政治家には年金は必要ないと思う。政治資金で申告しないなら脱税だし、過去年次分は修正がきかないぞ。一般人なら重加算税が課せられる。)

 要は、ただの聞きかじりでものを言っているということ。医療費のことも年金のこともほとんど調べずに言っている。無知丸出し。
 (ここはリポートでなく記憶で記しているので、金額は大雑把だが、前に丁寧に調べたので大きくは外れてはいないと思う。)

 要は若者を中心とする「何となく不安・不満」を持つ層にウケるためのデマを撒いているということだ。ま、誰かを敵対視する時には、よく調べると言えなくなるから、まったく調べずに言っている。
 たぶん、次の選挙にでも出たいのだろう。
 でも、さすがにもう少し勉強してから言え。
 それに、先にNHKをどうにかしろ。

 

 ちなみに、治療が終わり食堂に行くと、見知らぬ患者ばかりだった。

 春先は顔ぶれがガラッと変わる。

 腎不全(透析)患者は、一年に三十万人くらいの規模だが、多くがその年のうちにこの世を去る(心不全や肺疾患で)。ここはストックではなくフローだ。

 こういうのは、実際に病棟に入ってみぬと見えて来ない。ここは人生の終りのひと刹那を過ごす場所ということだ。

 「ひと月に三十万」の医療費でも、それを必要とするのが四か月。要は百二十万がここに来てから死ぬまでの医療費だ。これは盲腸の手術一回分だ。

 ある腎臓医が「人工透析患者の医療費が特に高いわけではないですよ」と言っていたが、中期スパンで観れば、癌患者よりも安いかもしれん。

 「ひと月に三十万」だけを切り取ると高そうに見えるわけだが、これもひと刹那の視角だ。実態を知ると、そら恐ろしい。

 毎年、病棟の患者が一掃される。

 

追記)当たり前のことだが、やり方を変えるだけで医療費はかなり削減できる。既に始まっているが、病院間で情報を共有するだけで、「病院ごとに検査を受ける」手間が省ける。

 複数の病院に通う者からすると、病院ごとに同じ検査を受けるのは不合理だと思う。CTなどは数日違いならほとんど判断が変わらない。

 透析患者に限って言えば、欧米で認可されている「ポータブル透析機」を認可すれば、患者が自分で機器のセットが出来るから、たぶん、医療費は半減させられる。

 自分で医療行為に踏み込むので、そこにはミスが起きる可能性が生じるわけだが、それくらいは自己責任の範囲だと思う。足の血管を利用するようにすれば、なおやりやすい。合理化を試みるだけで費用は大幅に圧縮させられる。

 当事者的には、拘束される時間を増やすより、期間は短かくなっても、自由に使える時間が増える方が有難い。

 

 こんなことより、一年間に一分も視聴しないNHKに料金を請求される方がもっと理不尽だ。もはやテレビが国民が情報を入手する基盤だった時代は過去の話になっている。

 我が家では、ほとんどテレビが使われない。画面は真っ暗のまま。

 放送法を改正してNHKを純然たる民間会社に変える方が優先事項だと思う。生活保護世帯の多くは、医療費がタダでもNHK料金は請求される。家族に一人でも所得税を払っている者がいればNHKは完全免除にならない。要は税金よりも取り立てが厳しいということ。

◎霊界通信 「死者を慰める」3/11後半 高麗神社

霊界通信 「死者を慰める」3/11後半 高麗神社

 能仁寺を出た後は、これも予定通り、高麗神社に参拝することにした。

 お寺が合う者、神社が合う者と、死者にも様々な者がいる。

 ま、一度でぱっと話が済むことは僅かで、繰り返しご供養を心掛けることになる。

 ご供養の段取りは、前半で示した通りで、同じことをここでも行った。

 これは繰り返しになるので、ここでは省略。

 

 この日気になったのは、私の後ろから来た参拝客の女性だ。

 周囲には他に参拝客がおらず、この女性は独りで来ていた。殆どの人には見えぬと思うが、この女性の右側には女が寄り添っていて、あまり素性が宜しくない者のよう。姿を極力隠そうとしていることで、それが分かる。

 ここで数枚ほど遡って見ると、神殿に昇る階段のところで、この女性のすぐ後ろに女がついていた。

 神殿の前に上がった段階では、この背後の女は消えている。要はこの世の者ではなかった、ということだ。

 まだ朝早いから、一人で神社に参拝に来たのは、願い事があるからで、その背景には苦痛がある。

 その苦しみを感じ取って、幽霊が集まっている。そして、それが余計に苦痛を増す。

 こういう状況になったら、まずは自分を振り返ることが大切だが、ひとは「自分自身の本心」が実は全く分からない。願望や期待、喜怒哀楽がごっちゃになるから、どれが本当の気持ちなのかがよく分からない。そういう時には、自分にまとわりついている者の姿を目にすると、自分自身の状態を理解する手助けになる。「自分自身のあるがままの状態」を受け入れれば、背後の女のようにつきまとう死者が自ら離れて行く。

 幽霊は日常的に、ひとに憑依して来る。これには共感が前提にあるので、「感情のゆれ」もしくは「ぶれ」を矯正すれば、共感自体が成り立たなくなる。除霊浄霊は、自分の手で行うことが出来るし、そうすべきだ。

 

 さて、私の方は、やはり煙(霊気)が周囲に沢山出ていた。

 「何百本の手」は、かなり減ったが、まだ当分、ご供養が必要らしい。これは想定の範囲。

 もっぱら左側に集まっていたようで、今も左の肩がやたら重い。

 

 右側は何ともないのだが、右には着物姿の女性が立っていた。

 九枚目の画像で、直感の勝った人であれば、「人影が立っている」と感じると思う。

 あの世の者は「感情」で出来ており、「意識」の存在なので、かたちはあまり重要ではない。

 私は右側の肩甲骨の下あたりを触られているので、実感として「そこにいた」と理解出来る。

 今回、かなり幽霊の数が多かったので、私が巻き込まれてしまわぬように、手助けしてくれたようだ。

 いつも記す通り、あの世には無条件でひとを助けてくれる存在、すなわち一般に言う「守護霊」のような者はいない。それは「あって欲しい」という願いから生まれたものだ。

 一方、仲間のような者はいるから、きちんと敬い、協力関係を保つことが大切だ。

 私が難局に陥る時、見るに見かねてか、いつもこの巫女さまが手助けしてくれている。

 

 前半において、震災津波で亡くなられた人たちのご供養について触れたが、今年必要なご供養は次の手順で行う。

 これはお盆の時と全く同じで良い。

 金属バケツや七輪持参で海岸に行き、迎え火を焚く。

 不慮の事故で亡くなった者は、自分が死んだことを理解していない場合があるから、「あなたはもう亡くなっているのです。まずはそれを受け入れて下さい」と語り掛ける。

 心を慰めるために、仏壇の前で生前の思い出を語る。

 これを三日間続ける。

 三日後に再び海岸に行き、送り火を焚く。

 一般人が自分で行うご供養には、お経は必要なし。普段の言葉で、そこに相手がいると思って語り掛けること。

 なお、海辺で火を焚いたら、その灰を持ち帰り、畑や鉢植えの肥料とすること。海辺に放置したら逆効果になるので、念のため。

 また、送り火・迎え火を焚く時には、少し陸側に離れて立つこと。海辺には様々な者がいるので、帰路に故人ではない別の者を連れ帰らぬように、火が消えるまでは水辺から少し離れていること。

 私は七年前くらいに三陸を訪れたが、帰路カーナビが作動しなくなり、防波堤の先に「直進してください」と指示されたことがある。別の者が車に乗った。

令和元年九月十二日。老人の幽霊に寄り憑かれた時に「巫女さま」が現れた。

 

◎霊界通信 「死者を慰める」3/11前半 能仁寺

◎霊界通信 「死者を慰める」3/11前半 能仁寺

 三月十日(日)には、能仁寺にも高麗神社にも参詣参拝出来なかった。

 あの女児のことが気掛かりだったのか、睡眠中に悪夢に悩まされた。

 十一日の午前三時頃には、私は眠っていたが、それでいて自分が眠っていることを自覚していた。だが、突然、数百本の手が床から出て来て、私の全身を掴んだ。

  そして、そのまま私を下に引く。

 背中はコールタールの海で、私は少しずつ沈んで行った。

 「おいおい。俺はこのまま地獄に引きずり込まれるのか」

 だが、下から声が聞こえる。

 「助けて」「助けて」「ここから出して」

 大勢の声の中にあの小さい女児の声も混じっている。

 ここで気が付いた。

 「俺を引きずり込もうとしているのではなく、こいつらが上に上がりたいのだ」

 私を引っ張っているのではなく、自分たちの体を引き上げようとしているのだった。

 ここで覚醒。

 

 これなら早いとこ、お寺に連れて行くに限る。

 特にあの女児は本当に女児かどうかは分らぬが、ひとまず頼れるのは私しかいないと思っているだろう。ならお寺でも神社でも望むところに連れて行くのが早い。

 お寺にせよ神社にせよ、その地その地で固有の「気の流れ」があるから、めいめいに合う場所に連れて行けば、そこで離れる。

 そこで日曜に予定していた通り、飯能の能仁寺に参詣することにした。

 朝一番で向かったので、境内には人が数人いるだけだった。

 

 お焼香をして、本堂に向かい、まずは背後の者たちに声を掛ける。

 「ここで毎朝読経をして貰い、それを聞きながら己の一生を振り返り、心を穏やかにすれば、今の暗闇から出られる。ここで降りなさい」

 ご本尊さまに向かっては、「沢山置いて行きますが、宜しく引き取って下さい」と祈念した。

 

 ベンチがあるので、そこに座り、女児のために缶ジュースを開けた。

 スプライトが良いのだが、これは売っていなかった。

 私はジュースが禁忌食品なのだが、この場合は、飲んであげぬと女児が味わうことが出来ない。私の喉を通して女児もそれを飲む。

 

 この後で、不動堂で手を合わせ、浮かばれぬ衆生を引き取ってくれるように頼んだ。

 何となく、こういうのが自分の務めのひとつであるような気がする。

 

 お寺を出ながら、今朝の夢を思い出した。

 まるでコールタールの海に沈んで行くような状況だった。

 それとあの何百という手と来たら。それと口々に叫ぶあの声。

 ここで、単純なことに気が付いた。

 「今日は三月十一日だ。海で亡くなった沢山の人たちの命日じゃないか」

 あれから十三年が経つが、いまだ行方不明のままの人も数千人はいる。

 不慮の事故で亡くなると、十数年の間、暗闇の中で眠っていることが多いのだが、いよいよ目覚める者も出て来ると見える。

 十三周忌なら節目の時でもあるから、いっそう丁寧なご供養が必要になる。

 叫んでも、殆どの生者には声が届かぬから、耳を傾けようとする者に沢山集まることになる。あの何百の手はそういう意味だ。 

 私は生来、田舎者で鈍感だ。目の前の出来事の持つ意味になかなか気付かぬことがある。   (後半に続く)

◎「島津亜矢」恐るべし

「島津亜矢」恐るべし
 「歌の上手い歌い手は幾らでもいる」、「ルックスのきれいな人は幾らでもいる」が、「歌が上手くルックスの図抜けた者はなかなかいない」からスタアになれる。
 これが常識だ。
 実際、フィリピンのクラブに行くと、そこの専属歌手にはとんでもなく上手い歌い手がいるが、スタアにはなかなかなれない。
 プロになりスタアになるには、総てを「持っている」必要がある。

 だが、これは一般的に言うテレビや映画でのスタアを意味するものだ。ルックスが頭二つ抜けていたり、他とはかけ離れて歌の上手い者は、一芸で自分の価値を証明できる。
 島津亜矢さんは、正直な話、「良い意味でブチャイク」だと思うが、歌の上手さは当代一だ。

 日頃、病棟で六時間も寝たきりで過ごすので、その時間を潰すのにネットサーフィンを多用する。
 たまたま島津さんの動画案内を目にし、「そう言えば、晩年の母がよく聴いていたっけな」と思い出し、聴いてみた。
 北島演歌だったが、これがかなり上手い。
 「北島三郎の世界をよく表現で来てんなあ」と感心した。

 その流れで他の曲を聴いてみた。
 「天城越え」「三日月」・・・。
 あれあれ。本人に匹敵するくらい巧みだわ。
 ここから、カバー曲の方に重点が移る。
 島津さんは、ポップス、洋楽も歌うわけなんだな。
 巧みだと実感させられるのは、「演歌臭さ」がまったく無いからだ。演歌特有のこぶしと言うか「癖」が消えている。

 それなら、「駅」はどうなのよ。
 この曲は歌い手の表現力がストレートに反映される。
 今の竹内まりやさんの歌う「駅」の主人公は、四十台半ばの女性のように聞こえる。竹内さんは六十台半ばだから、かなり若返っている。
 若手の堀優衣ちゃんの歌う「駅」は、二十台後半の女性の歌になっている。これは上手い。若手ではこの子の「駅」が一番響く。
 島津さんの「駅」の主人公はアラ四十歳くらい。佇まいが眼に見えるよう。島津さんは五十台ではなかったか。
 おいおい。この歌手はただ者ではないぞ。

 そこから、島津さんの洋楽カバーを聴いた。
 この人の表現力は尋常ではないわ。
 冒頭で「良い意味でブチャイク」と失礼なことを書いたが、とんでもない話だった。
 こりゃ、病身を押して、いずれ生歌を聴きに行かねばならない。

 島津亜矢恐るべし。
 母が何故いつもこの人の歌を聴いていたのか、その理由がよく分かった。この人の歌で、母に近づくことが出来た気がする。

 ちなみに、母は「〇木〇ろし」さんの歌が嫌いで、この歌手が顔を出すと即座にチャンネルを変えていた。その母を見ていたので、私もつい別のチャンネルに。 

◎夢の話 第1119夜「銀座にて」

夢の話 第1119夜「銀座にて」
 三月十一日の午前零時に観た取り留めのない夢です。

 銀座に食事に出かけた。
 相手はアラ四十くらいの女性(たぶん三十八歳)で、こちらは専ら聞き役になった。
 「あれがどうの」「これがどうの」
 こちらが口を開くと、どうしても説教口調になるから、ただ受け止めることに徹する。

 ひとしきり話した後で、我に返る。
 「俺が宴会や会合には出ないと宣言したのは、もう十年も前だ。一杯二杯飲んだだけで気分が悪くなるからそうした。だが、今はこうやって外で飲んでいる。おかしいぞ」
 その途端に、鳩尾がぎゅうっと重くなった。
 「ああ。コイツは夢だ。俺は例外や特別を作らぬから、これまで生きて来られたのだ。その俺がこうしているということは、すなわちこれは現実ではないということだ」
 ここで自ら夢を中断し覚醒。

 最後に銀座で飲食店に入ったのは、既に二十年以上前だ。
 ふらっとこぎれいな店に入り、コーヒーを頼んだら一杯千三百円だった。
 「さすが銀座だ。コーヒーが千三百円なのに、カレーが千二百円。カレーの方が安い」

 ここで兄の話を思い出した。
 兄が会議で上京した折、銀座の寿司屋に立ち寄った。
 ほんの時間調整だったので、中トロ二貫を食べ、ビールの小瓶を飲んだ。
 「その勘定が一万七千円で」
 銀座の有名店でも、「ひと揃い三万円」くらいだろうから、中トロ二貫でそれは流石に高い。
 だが、大間のマグロの一番良いのを銀座で食べたら、それくらいの売価を付ける必要がありそうではある。場所と空気がもっとも高いところだ。
 それが十年以上前の話。

 今は円安なので、外国人の感覚なら、「別にフツー」かもしれんが、一般国民にしてみれば気軽に「週に三度」と言うわけには行かない。
 生活実感と「通貨の価値」が乖離している。
 都合の良い輸出産業もあるだろうが、下々の国民は楽ではない。
 この辺に考えが及ばぬから、この内閣はダメだと言われるわけだが、そんなことは総理の頭には無い。目の前のことを凌ぐことで頭が一杯だから、中長期の展望がない。「今」しか見ていないわけだ。
 ま、選挙があれば、否応なしに総理は交替だろうな。
 できれば政治家も辞めてくれ。貴方には向いていない。

 国民生活は物価高と増税で苦しくなるばかり。
 鬱屈が「生活保護者」など弱者マイノリティに向けられるようになって来て、ネットでは「生活保護叩き」が盛んだ。
 この辺も論点ずらしで、裏側で政府がおぜん立てをしているケースがあるから要注意だ。目的は福祉の制限で、これを画策している時に、必ず「不正受給者」のニュースが出る。ソースを辿ると政府が出しているから確実だ。
 世論を醸成して、政策を変え福祉を制限する動機づけにするということ。


 責めるべきは生活保護者ではなく、政治の在り方全般で、金持ち優遇の発想だ。
 その不当な利益を得ている代表がNHKなどで、今やテレビはオワコン産業なのに、利益保持の画策をしている。叩くのはこっちで生活保護受給者ではない。

 申請しても、これが認められるケースは少ない。固定資産なし、車なしで、持病があっても「働ける」と判断されれば下りない。

 ところで、数日前に久々にレンタルビデオ店に寄ったら、新作の棚が薄っぺらになっていた。
 考えてみれば、今や動画を視聴するプラットホ-ムが沢山あるから、新作映画の多くがそっちの方で観られる。
 実際、借りた映画のうち二本の新作が、既にネット経由で観たものだった。パッケージでは違った印象になるから、さらなる新作が出たのかと誤認した。
 レンタルビデオ店は「ネットでも観られぬような古い映画、マイナーな映画」を借りるための店に変わって行くのだろうと思った。

 後で考えたが、せっかくこぎれいな女子と飲食していたのだから、夢とは言え、もう少し楽しめばよかったと思う。
 現実にはこれは「棺桶に近づく行為」なので、もはや起きない。

◎霊界通信 「お寺に行き着けなかった」

◎霊界通信 「お寺に行き着けなかった」
 この数日、右の脇腹に違和感があるが、名栗に行った頃からだと思い出して、その時の画像をチェックしてみた。
 すると、見逃していたが、右腕付近に女児の姿がある。しがみ付かれているので、これが重く感じるわけだ。
 「小鹿野のあの子ならいいけれど、別のだろうな」
 すぐにご供養することにし、日曜の朝にお寺に出掛けた。
 ところが、飯能の能仁寺は何かイベントがあるらしく駐車場に入れず。そこで高麗神社に向かったが、こちらはマラソン開催のため、そもそも道路が通れなかった。
 仕方なく、すごすごと帰宅することになった。

 画像の右側に歪みがあったので、何か変化が起きているだろうと思ってはいた。煙の筋が見えていたが、神職の着物と紛らわしいので、静観していた。
 だが、これは羽織の端ではなく「蜘蛛の糸」で、幽霊が寄り憑く時の触手だ。体感的には、顔に掛かれば、ちょうど「蜘蛛の糸」に触れた時の感触と同じになる。顔以外ではほとんど気付かないから、腕に絡みついていてもそれとは知覚できなかった。
 ただ、右腕から右腰付近が重いので、何かあるだろうとは見ていた。
 画像を何千枚も見ている私が見落とすくらいなので、さらに粗くなるウェブ画像では、ほとんど判別は難しいと思う。
 遠目では子どもに見えるのだが、触られている感触では、子どもではないと思う。その姿を取っているだけ。

 自宅に戻り「私には助けられぬので離れてくれ」と声に出して言い、お焼香をした。
 小鹿野のあの少女は、自分の傍に置き、近くで見てあげたいと思うわけだが、その心情を悟り、少女の姿で寄り憑く者が出る。
 当分の間は、亡者の群れの真っただ中にいると思うが、いずれこの群れを脱すれば、こういうことが減ると思う。

 ちなみに、僧侶や神職は知らぬと思うが、祝詞やお経を唱えている時には、周りに数多くの幽霊が集まってそれを聞いている。
 画像を撮影する時に、最も異変が映るのは、「最初の一枚」か「祝詞や読経の最中」になっている。そもそも寺社・神社は人々の思いが込められる場所で、その念が高まるのが読経や祝詞の間だからではないかと思う。