日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎霊界通信 「何を伝えようとしているのか」

◎霊界通信 「何を伝えようとしているのか」
 水曜朝になり、四年前のことを思い出した。
 香港のクルーズ船が横浜に入港したのが三月の初めで、その幾日か前に、神社のガラス窓に「防護服の男」が現れたのだった。
 「コロナ」どころか、まだ「武漢肺炎」「新型肺炎」の名称も定着していない頃に、防護服の男が出たので、当時は男の意味が分からなかった。もちろん、半年後には「これか」と痛感させられた。

 今はまたガタガタと動き始めている。
 八日の「髪の毛クシャクシャ」のヤツは明らかに悪縁なのだが、私に関わろうとする者ではない。別の意図または目的をもって姿を現した。
 確かめる必要があると考え、細目にセルフチェックをすることにした。

 最寄りの八幡神社でガラス映像を撮影したが、いつもより煙が出るのが早い。定位置に立つと、すぐに「穴」が開き、びゅうびゅうと煙が出た。
 途中の変化で何が起きているかは、説明してもどうせ伝わらないので省略するが、三枚目で私の左横に「少女」が立っているのは、幾人かは見て取れるだろうと思う。
 この子だけは、うっすらとシルエットが出ている。小学六年か中一くらいの女児だ。

 ここで白状すると、八日にも何らかの悪縁が近づくであろうことは予期していた。
 これは私が「苛めに苦しみ自死を選ぶ子どもを止めるためには、アモンを案内するべきではないか」と考えていたからだ。
 アモンは実在する筋金入りの悪魔だから、子どもが「苛めっ子を叩きのめして」と願えば、その通りにすると思う。
 基本は「その相手の死後、自分たちのものにする」というものだが、さらに強く願えば、今生のうちに仕返しをしてくれる。
 ただ、この世の刑法とは違い、悪縁の障りには限度が無い。親や子、親戚どころか隣の家の猫まで累が及ぶ。
 それと同時に、呪いをかけた当人も、代償としてその相手と同じ目に遭うことになる。
 「それでも、自死すればやはり無限に苦しむのだから、やり方を教えた方がましでは」などと考えていたのだった。どうせ地獄なら、相手も道連れに。
 そこに「髪の毛クシャ」が出たので、むしろ「やっぱり」と納得した。
 帰宅してからは、回線の繋がっていない電話が「チリ」「ジリ」と連続して鳴ったから、たぶん、アモン一派が「やれ」「教えてやれ」と背中を押していたのだろう。

 この時想定していたのは、「苛めっ子」や「不法外国人」だった。
 そんなことを考えつつ、この日もガラス窓の前に立ったわけだが、この思考に添うように女児が現れた。ま、順当には「恨みを晴らして」ってことだ。
 苛めっ子ややりたい放題の不良外国人に対し、直接手を下さなくとも罰してくれるのであれば、話が簡単だ。だが、いざスイッチが入ったら、たぶん、障りは小さい子から始まると思う。そこから年寄りに及び、ぽろぽろと欠けて行く。傍にいるだけで無関係の者まで悪影響があることと、「同じことが呪詛をかけた者にも起きる」ので、アモンを頼むにはよほどの覚悟がいる。

 ま、アモンや「ゆかりちゃん」の側ではなく、「のぞみちゃん」の道筋を目指すべきではある。
 と、ここで悪意を解除し、桜を眺めて、気持ちをほぐした。
 悪意はなるべく家に持ち帰らぬ方が無難だ。

 一方、このところの「あの世の者」たちは、個人的感情ではない何かを訴えているようにも見える。
 令和元年から二年の頃のあの騒がしさよりも、真剣度が高いかもしれぬ。
 正直、「今年中にウラジミールを街灯に吊るさぬと、来年には何千万人かが死ぬ」かもしれない。(最後は妄想だ。)

 とりあえず、先ほど自分の子どもたちのためにガスマスクを注文した。
 都心で働いているので、そのうち必要になるかもしれん。

 半年後くらいにしか分からぬ話なので、現時点ではこれが原因でパニックなどが起きるわけがない。そこは気が楽だ。ただの妄言の域でのこと。

 

追記1)幽霊の声を聞いたことが無い者は「ただの妄想」と思うかもしれぬ。

 もちろん、それでよい。そういう人は私や私の同類が抱える苦痛とは無縁だから、気にしなくとも良い。

 私は「お迎え」(死神)に直接対峙したことがあるので、以後は自分の直感を一番に信じる。あの世の者はこの日もきちんと「決まり通りの手順」に従って、私に「自分たちは実際にいる」と示している。

 実例を挙げると、三枚目の画像では、前後に二枚の自動ドアがあるので、ガラス窓には参拝客の女性の姿が二重に映っている。自動ドアが前後二枚だから二重映りだ。

 だが、私の腕を数えてみると、合計で六本あり、二重映りよりも「二本多い」。

 私はごく普通の一般人なので、個々の見間違いや判断違いも多いのだが、事物の見え方如何に関わらず、「明らかなメッセージを含む」ことは疑いない。

 少女の姿が見える者には「とりあえず飲料水を2カートン買っとけ」と伝えて置く。

 

追記2)冒頭の「髪の毛クシャ」(八日撮影)をよく見ると、やはりベースは女だと思う。それに別の者や獣みたいなものがぐじゃぐじゃと重なっている。

 まるで『遊星からの物体X』の終盤にに出て来る「ひとや獣が入り混じったバケモノ」のようだ。

 ちなみに、あまり長い間見コイツを詰めないように。

 

 総てが私の妄想であることを願う。それは「この後何も起きない」ことを意味する。

 単なる妄想癖ほど幸せなことはない。

 追記)「隠すな」ということなので、下を付記する。

 

◎病棟日誌 悲喜交々4/9 「食べるのが基本」

病棟日誌 悲喜交々4/9 「食べるのが基本」
 治療の後で食堂に行くと、「お茶屋のオバサン」が座っていた。
 簡単な挨拶をしたが、オバサンの表情が暗い。
 「まだあまり調子が良く無いのだな」と思いつつ、自分の席を見付けてそこに座る。

 ほんの数分後にオバサンが去り、介護士のバーサンがトレイを片付けに来た。
 「あれ。トダさんは全然食べられていないな。これじゃあ、1にも届かない」
 バーサンは患者ごとに「どれくらい食べたか」を記録しているのだが、10段階で評価する。それが「1にも満たない」のでは、「手を付けていない」のと同じことだ。

 これは二年半前の私と同じ状態だ。
 うっかり苦手な稲荷の神域に入り込んで、障りを得た。
 それから半年以上、その障りに苦しめられたが、食事がまったく喉を通らず、十二キロ痩せた。心臓に水が溜まり、肺水腫になったから、横になって眠ることが出来なくなった。椅子に座ったままほんの少し目を瞑る状態で、寝ても覚めても常に酸素を吸っていた。
 これで食べられるわけがない。

 ここで気が付く。
 「あの人は老いた親と一緒に暮らしている」
 ダンナはそもそもいなかったか、あるいは早くに死別した。
 自身も障害者だが、家に帰ると、手が掛かる年寄りが待っている。

 もちろん、これも勝手な憶測だが、こういう感じの直感は外れたことが無い。
 「だが、もしかすると、家に居るのは老いた親ではないのかもしれん」
 私に起きたことがトダさんに起きているかもしれん。
 そこで次に会った時に実際に確かめてみることにした。
 「年寄りの影」は、実際には存在しない者かもしれんが、それならその影響を排除すれば、食事を摂れるようになる。
 これは私の経過と同じ。
 とりあえず、次はお茶屋のオバサンと傍の席に座ることにした。傍から見れば、少し変な風に見えるかもしれんが、このまま放置すれば長く持たないと思う。
 他人の生き死にに関わるつもりは毛頭ないが、ほんのちょっとした変化を加えることで死なずに済む場合もある。

 一方、「お茶屋のオジサン」の方は姿を消した。
 このところ、急速に弱っている感じがあったが、入院病棟に入ったか。この人は車椅子に乗るようになり、一年もったが、それだけ長く耐えられたのは、「食事をきちんと摂る」からだと思う。食べるスピードは遅いが、出された食事をきちんと全部食べていた。病院めしも、一時間かけて、ゆくうりと全部食べた。
 それを見ていたので、「このオジサンを見習って、これも仕事だと思って残さずに食べよう」と思うようになった。

 今日はたまたまだが、「お茶屋のオバサン」がトダさんという名だと分かった。この病棟は交差点と同じで、いちいち通る人の名前を確かめたりしないところだ。

◎霊界通信 「地獄の釜の蓋が開く」

◎霊界通信 「地獄の釜の蓋が開く」

 能仁寺の山門の外に、人目につかぬ場所に仏さまが立っていたが、どうやらこのお寺とは由来が違うのか、周囲は荒れ加減だった。

 あまりお線香を供える人が多くないのか、焼香台には灰が見えず、水が溜まっていた。

 「こういう感じのところは警戒が必要だ」

 ひとの信仰心に支えられぬ地蔵や不動の周囲には、不浄の者が寄り憑きやすい。

 衆生を分け隔てなく救済するのが地蔵や不動なので、これを縋る者が多くなる。ところが、それらの背中を押し、先に進めるのが人々の信仰心だ。周りに集まってはみたが、為す術もなく、その場にとどまる者がいるから、「気を付けろ」と言うわけだ。

 人が滅多に来ぬところに、突然、供養してくれようという者が現れれば、誰でもその者に飛びつく。ご供養を施しているのに、逆に不浄の者が寄り憑いてしまうという結果を生んでしまうかもしれん。

 お焼香をする間、やはり、「誰かが見ている」感じがするので、早々にその場を離れた。

 

 お寺を出て、神社に向かったのだが、何となくそわそわする。

 セルフチェックをすべく、幾枚か撮影したので、駐車場で開いて見ると、最初の一枚に良からぬものが出ていた。

 この髪の毛がクシャクシャッと固まったようなヤツは、もの凄く性質の悪い悪縁だ。

 誰彼なく悪さを働こうとする。元は女だったかもしれぬが、何十何百と凝り固まったので、今は黒い塊にしか見えない。

ちなみに、こういうのは中を覗き込んだらダメだ。こっちが興味を持って覗くと、それが相手の心に響く。

 私の肩口に女性の顔が出ているが、たぶん、巫女さまだと思う。下を向いているので断言はできぬが、巫女さまが顔出しまでして支えているのは、前にいるヤツが相当性質の悪いヤツだからということ。

 悪縁が近づいた時には、必ず巫女さまが現れるが、私みたいな者が無防備に悪縁に近づけば、たちまち取って食われると思う。

 もはや悪霊と言っても良い存在なのだが、コイツはそれこそ地獄の底にいるような者だから、コイツが外にいるのであれば、それこそ「地獄の釜の蓋が開いた」状態だと思う。

 まともに写ったのは、最初の一枚だけで、他は普通の「ちょっとした影」程度の状況だった。

 同じ場所、構図で複数枚撮影したが、この内門の同じ位置に、「髪の毛クシャクシャ」が出たのは、最初の一枚だけだ。

 何となく「女の頭みたいだ」と思うだろうが、それは正しい。

 私の服の一部を隠しているから、「私の前にいた」ということで、門の陰から頭を出したわけではない。

 この日の最初の「地蔵」周辺と関りがあるかどうかは、まだはっきりしない。

 

 ちなみに、こういう出方をする時には、「少し姿を晒してみて、それを認識出来るどうかを確かめる」ためのことがあり、そういうケースには、その場のどこかから「こちらを見る視線(眼)」が覗いている。

 目視ではっきりしない時には、少し離れた箇所を調べ、「そこには存在しない筈の目のようなもの」があれば、疑いなく幽霊が関わっている。

 それが悪縁であれば、尚更、「己の姿を隠そうとする」ので、「見えるからいる」「見えぬからいない」という発想をすると、判断を誤る。

 合理的な判断など、「将棋盤の上で行う将棋」と同様に「ゲーム」に過ぎない。盤の外では通用しないのだ。ルールが通用するのは、自分と相手が決まりに従って行動する時だけの話だ。

 将棋で命を獲られることはないが、悪縁に負けると心が支配される。

 過度に恐怖心を持つ必要はないが、甘く見てはならない。いざしくじれば、やり直しがきかない。

 

 今年から来年にかけて、「大異変が起きる」と言われるが、とりあえずあの世ではもう始まっている。

 「大災害が起きる」予言については、必ずしもこの世の出来事ではない可能性があるが、この世の出来事と連動している場合があるので警戒が必要だ。

 何年かぶりに、がたがたとあの世が動いており、性質の悪い者が這い出て来た。

 

◎能仁寺にてご供養(4/8)

能仁寺にてご供養(4/8
 前夜、微妙な夢を観たので、朝からご供養に行くことにした。あれこれ考えるよりもすぐに行動を起こした方が問題が小さくなる。

 月曜の朝なので参詣客が少なく、駐車場にも入れられる。
 たまたま山門の脇に目を遣ると、地蔵菩薩など数体の仏さまが立っていたので、そちらにお焼香した。
 少し周囲が荒れていたので、少しく緊張した。
 焼香台にも雨水が溜まっており、灰が見えぬところを見ると、やはりここは人目につかず、お焼香する人が少ないようだ。
 山門の外だし、ひとの信仰に支えられていない地蔵や不動像には注意警戒する必要がある。

 あとはいつも通りの手順でご供養した。
 小鹿野の子どもたちは、今は私の傍にいると思うが、自己都合で引き留めて置くのも可哀想だ。
 「引き留めたりしないから、先に進んで、また人として生まれて来るとよい」
 リンゴジュースを供えようとしたのだが、口を開けて、うっかりすぐに飲んでしまった。祈祷よりも先に飲んだので、また改めてご供養することにした。

 お寺を出ると、日高の高麗神社でセルフチェックをした。
 桜が満開で、境内が華やかだった。
 鳥居の外には、ソメイヨシノの他に十月桜も咲いていたが、さすがに華やかさと言う点では前者の方が勝っている。
 ここの十月桜は、年に二回、十月と三月に開花し、二か月の間咲き続ける。
 「昔のキャバレー(古い)にもいたよな。ショートカットで地味な感じだが、体育会系で実はスタイルが抜群にきれい。派手さはないが、シンプルかつ味がある」
 例えはイマイチだが、大人になると十月桜の有難さはよく分かる。

 セルフチェックでは発見があった。

◎夢の話 第1126夜 「夜の訪問者」

夢の話 第1126夜 「夜の訪問者」

 八日の午前三時に観た夢です。

 

 居間で横になっている。

 震災の時に家族皆が居間に集まって寝たが、その後私の心臓の調子が悪くなり、そのまま居間で寝袋に入って眠るようになった。二階への階段が登れぬためだ。

 その習慣が今も続いており、居間の床に寝袋を敷いて、その中で眠っている。

 既にこのやり方に慣れ、背中の下が固くないとよく眠れなくなった。

 この日も同じように寝袋に入っていたが、半覚醒状態のまま天井を向いていた。

 体自体は眠っているが、頭の中は半ば覚醒している。

 

 すると、居間の扉を開けて人が入って来た。

 見知らぬ男だ。

 眼を瞑っていたのだが、どういうわけか男の姿が見える。

 「ならこの状態自体が夢なのだな」と思った。「半覚醒状態にある」のではなく、「半覚醒状態にある夢を観ている」わけだ。

 だが、私の傍らに立つ男が口を開いた。

 「いや違うよ。あなたは起きているんだ」

 「え」

 「正確には、体も頭も眠っているのだが、心が目覚めている」

 どういうこと?

 「ひとの意識には三層あって、体、頭、心がそれぞれの認識をしている。あなたの心だけが目覚めているから、俺はこうやって話が出来るんだよ。あなたの言う通り、我々は心だけの存在だからな」

 「われわれ?」

 「ああ。今日来たのは俺だけではない」

 すると、男の背後に複数の人影が現れた。

 「何だか数日前から、家の中に大勢の人がいる気がしていたが、こういうことか」

 今週から、日中に家に私一人でいる時間が増えたのだが、しかし、家じゅうから人の気配がしていた。

 それも数十人の規模だ。

 

 「そうだよ。となると、俺たちに気付いていたのだな」

 「さすがにもう慣れたよ。生き死にの懸かる修羅場を潜り抜ければ、誰でも研ぎ澄まされる」

 二年前の稲荷に始まって、あの世に引き込まれそうになる機会が幾度もあった。

 そのせいで、大概のことには驚かなくなった。

 怖ろしさは相手を知らぬことによって生じる。得体の知らぬ相手だから怖ろしいと思うので、どのような存在かを知れば、その恐怖心が大方無くなる。

 「だから来たんだよ。これを見てくれるか」

 男はそう言うと、私に一枚の写真を見せた。これも正確には、プリントされたものではない。その光景を見せたのだ。私の方は、まるで一葉の写真を眺めるようにその光景が見えた、と言えば現実に起きたことに近い。

 その写真には、ひとりの男が写っていた。

 「この人のことは知っているよ」

 知人の一人だが、特に親しかったわけではなく、個人的にやり取りしたことはない。

 「この人がどうかしたのか?」

 「よく見てくれ。傍に俺がいるだろ」 

 写真の中の人物を注視すると、確かに肩口に煙が出ていた。その煙の中を覗き込むと、目の前の男の右眼の周囲が見えていた。

 「お前はこの男性に取り憑いていたのか」

 「取り憑いていた、は、言い方があんまりだな。見守っていたと言ってくれ」

 「そうか。じゃあ、お前はこの人に寄り添っていた、としよう。それが何だ」

 人は誰でも幾人かの幽霊を連れているものだ。共感を覚える者に幽霊は寄って来る。

 

 「コイツは俺が散々助言しているのに、それを聞き入れず、駄目な方、駄目な方へと進んで行く」

 「人間はそういうものだよ。水と同じで高いところから低いところに流れる。それでしくじるわけだが、それを選んだのは自分自身なのに、落ちた後は重力のせいにする。例え話だけどね」

 「実際その通りだ。俺が幾ら諭してやっても、感情に訴えることしか出来ぬから、意思を矯正させることが出来んのだ」

 「なるほど。それで私のところに来たか。その男に忠告して欲しいのだな」

 「ま、そういうことだ。俺には打つ手がない。ひとまずあなたはコイツを知らぬわけではないから、あなたの口から『やめとけ』と伝えて欲しい」

 「だが、意見するような間柄ではないよ。私は占い師でも霊能者でもないから、説明にも困る。ほとんどの者はあの世を極力見ぬように暮らしている。眼を閉じている者にそれをこじ開けて見させようとしても腹を立てるだけだろ。一切を当人に任せておけばよい。コイツの眼が開いた時に初めて教えてやれる」

 そもそも、私やこの幽霊の存在など、コイツは「馬鹿げた話だ」と思っている。

 「ひとにとって何が大切なことかは、死ねば分かるだろ。出口はひとつしかない」

 「だが、死んでから分かっても、もはや修正できない」

 「それも含めて、人生は修行の一環だわ。捨て置けばよい」

 当たり前だが、この男は写真のヤツに共感を覚えて傍にいるのだから、何とか助けてやりたいと思う。

 自分が犯した過ちを、写真の男が同じように犯そうとしているから尚更だ。

 「聞く耳を持たぬ者に説得を試みるより、耳が出来た時を見計らって、それとなく伝える方がすんなり受け入れて貰えるよ。はい次」

 

 目の前から男が去り、それと入れ替わって、今度は女が現れた。

 この女も、自分が取り憑いている男の様子を見せた。

 「この子は自堕落な生活をしていて、日々を無為に費やしています。何とか眼を覚まさせてやりたいのだけれど」

 写真を見ると、そこに写っていたのは、テレビに出る芸人の一人だった。まだ若手だ。

 周りには七つも八つも幽霊が集まっていて、めいめいが男の心にあれこれ吹き込んでいる。

 「ああ。欲望に負けてるね。遅かれ早かれ破滅するだろうな」

 それを案じて、この女は私に口伝を頼みに来たのだ。生きている人間には、ひとの言葉でなければうまく伝わらぬからだ。

 たまたまだが、私は一度「死んだ(心停止した)」ことがあり、それ以来、両方の境界線に立つようになっている。

 

 ここで私は思った。

 「今は、まるで私がこの幽霊たちのカウンセリングをしている状況じゃないか」

 ま、生きている者には、カウンセラーがいて、占い師がいて、自称霊能者がいる。

 だが、死者には、心を癒してくれる者が何も無いのだった。

 女の背後に目を遣ると、後ろには行列が出来ていた。

 ここで完全に覚醒。

 

追記)何となく「昨日ついて来た」ような気がしたので、画像を点検して見ると、なるほど男が抱き付いていた。

 

◎霊界通信 「幽霊の捉え方(見本)」

◎霊界通信 「幽霊の捉え方(見本)」
 七日日曜は家人に「必ず花見に連れてけ」と命じられた日だ。
 家人の要望は「巾着田」だが、ここは休日には駐車場が満杯だ。
 「それなら私を下ろしてトーサンは神社に行って」
 はいはい。

 私は独りで高麗神社に参拝したが、まだ午前中なのでセルフチェックの条件が整わない。
 とりあえず、普段通りの行動をしたが、幾らかは使える要素もあるようなので、「幽霊の見極め方」について説明することにした。

 参拝客が多い時には、念(祈念または気)の流れが強くなるので、幽霊が集まりやすい。ただ、それを撮影するとなると、環境条件を整えることが出来なかったりするので、なかなか難しい。
 物理的な証明が出来る条件にしないと、結果的に他者への説明力を欠く。

 まず、基本的に「あの世の者は目視が難しい」ことを認識する必要がある。
 ガラス映像は、ガラスを「透過する光線」と「透過せず跳ね返す光線」を分離してくれ、その跳ね返す側の光線は幽霊を見やすくする効果を生む。
 この時、ガラスに映った景色は目視するものと変わっている場合がある。
 1)まずガラス映像の中で、ガラス自体に歪みが無いことを前提として、「景色が歪んでいる箇所」や「理由なく影が出来ている箇所」を探す。
 ガラスの歪みや、光を遮る物体が無いのに、かたちが歪んだり、影が出来たりする時には、何かしらそれを生じさせる別の要因がある。

 画像③では、石柵の形状に歪みが生じている。ガラス戸の継ぎ目なので、ガラス自体に歪みがあるケースがあるわけだが、この場合は既に検証済みで、通常は歪みが生じない。
 「この周辺に、異変の要因がある」場合がある。
 画像④では、遠景の林の中に、遮るもの(樹)が無い状態なのにヒト型の影が生じている。ここで幾度か撮影した、女性の姿に近似している。

 2)不自然な煙や光に着目する。
 ⑤では私の右手付近にある「煙玉」がもっとも鮮明に析出されている。何となく「猫」を思い起こすが、多分に、かつての神社猫トラの面影を求めるせいかもしれぬ。
 私の前には、うっすらと人の頭のかたちをした煙が見える。
 髪型では女性のよう。身長的には子どもだ。
 左上には、手を合わせる女性に見える影があるが、これは不確かで、「そう見えなくもない」程度のもの。

 ここで気になるのは、「私の前にいる女児」なので、もう一度拡大画像に戻り、確認してみる(画像⑥)。
 すると、私のジャケットの裾よりも長い「袖」(袂)が確認できるので、これが「着物を着た女児」であると分かる。
 もちろん、この段階では確率60%程度の目測だ。

 ⑦は引き続き連写した画像だが、フラッシュ撮影による。
 フラッシュ撮影の場合、光が放射状、直線的に広がるのだが、この場合は私の前に曲線的に「煙が流れている」ように見える。
 何らかの「あの世的異変」が生じていた可能性が高い。

 この段階では、まだ確実に言えることは無いのだが、幾らか「通常の画像とはずれている」面があると言える。
 これを確認するには、3)同じ構図の下で、繰り返し撮影してみることが役立つ。
 TPOが揃いやすいのは、4)昼夜とも「午前午後の二時から四時の間」で、季節によって少し前後する。
 試行を繰り返しているうちに、鮮明な人影を捕捉する機会が来ると思う。

 ちなみに、私の前には「女児がいた」と思う。
 これが小鹿野町の「お稚児さま」と同一であるとは限らぬが、子どもが傍にいると「活力が増す」効果を生む。
 ひと言でいえば、「元気が出る」ということ。

◎病棟日誌 悲喜交々4/6 「我がことのように喜ぶ」

病棟日誌 悲喜交々4/6 「我がことのように喜ぶ」
 数日前に歯が一本無くなった。
 目覚めてみると、一本足りなくなっている。口の中に破片が残っていたので、寝ている間に粉砕されたらしい。
 まったく傷んでいない歯だったが、きれいに根元だけ残っていた。痛みも全くないところを見ると、神経が死んでいて、機能崩壊したらしい。顔の神経が切れると、形状を保てずに全体が垂れ下がるが、それと同じ。
 根元の神経がむき出しになるとかなり痛む筈だが、まったく痛みが無い。破片を点検すると、やはり虫が食った痕が無くきれいな欠片だ。
 カルシウム不足のケースもアリだが、それなら痛みがあるだろうと思う。
 「やっぱり俺は既に死んでいて当然の身なのだな」
 ゾンビと同じ状態だわ。
 これなら、「ある日突然、大腿骨が粉砕骨折する」なんてことも起きそうだ。

 治療が終わり、食堂に行くと、「お茶屋のオバサン」がいた。
 「お元気でしたか?」と声を掛ける。
 ひと月病棟から消えていたわけは、「入院病棟にいた」ことしかないわけなので、「お元気」も何もないわけだが、これ以外に声を掛けようがない。
 すると、「またこれから頑張ります」との返事だ。
 やっぱり入院病棟にいたわけだ。
 よく戻って来られたなあ。
 大体、この病棟には六十人くらいの患者がいるが、半数はその年のうちにいなくなる。
 車椅子に乗るようになったら、ま、数か月から長くて半年だ。
 腎不全患者は日本に三十万人くらいいるのだが、大半がフロー勘定で、古い患者がどんどんいなくなり、新しい患者が入って来る。その水準線が三十万人だ。

 入れ替わりが激しいので、人の名前などは一切覚えぬようになっている。覚えたところですぐにいなくなるからだ。
 この「お茶屋のオバサン」の名前も知らぬが、時々、「食が細い時の工夫」の話をしていた。
 「死んだだろうな」と思っていたので、他人事なのだが、すごく嬉しい。「我がことのように喜ぶ」と言う表現があるが、それはこういうことで、涙が出そうになるくらい嬉しい。

 「ここではひとの生き死になど特別なことではなく、誰かが死んでも心がまったく動かぬのに」と不審に思ったが、それは私自身の気の持ちようが変わったからだと気が付いた。
 この一月から総てが変わった。

 言葉に出すことはないが、他人を眺める時に、私が最初に考えるのは「この人の長所は何か?」ということだ。
 良いところがあれば学ぼう。
 この「お茶屋のオバサン」から学ぶべきは、「どんな状況でもニコニコしている」ところだ。具合が悪いから食が細くなっていたわけだが、とにかく明るい表情をしている。
 私とは真逆だ。
 私は割と本心をあっさり口にする。
 「まいった」「俺は終わった」と言ってしまうことで、現状を認識する。
 もちろん、それで終わりにはならずに、そこから起き上がることを考える。
 「やっぱ、現状、俺はゾンビだな」と痛感した。
 出来れば、「お茶屋のオバサン」のようにありたいものだが、そんな良い性格じゃねえし。
 さんざ打たれて来た人間が物分かりが良くてどうする?
 年寄りの嫌なところは、「とかく説教をし、自慢話をする」ことが典型だが、では年寄りが自慢話をし、説教をしないで、一体誰が物を知らぬ若者とかメディア人を統制するのか。
 皆に「好かれよう」なんて思う人間ほど嫌味なものはない。
 「真善美」を語る者ほど胡散臭い者はいないわけで。
 何事にもアンチテーゼは絶対必要だと思う。

 さらに起き上がって、人生と戦い始めるには時間を都合する必要がある。現状、生活時間の半分以上が生き残ることだけに費やされている。
 とりあえずSNSを添削して、日にあと一時間作る必要がありそうだ。