日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「鉄銭を見分けるのは難しい」

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さまざまな鉄当四銭

◎古貨幣迷宮事件簿 「鉄銭を見分けるのは難しい」

 小学校などへの寄付品を梱包していたら、鉄銭に眼が留まった。

 最初の画像で言えば、⑤の品だ。

 遠目では、本銭系(公許・請負)の地金に見えるが、ちと気になるところがある。

 そこで作業を中断し、ざっと眺め直してみた。

 

 だが、見本サンプルはその総てを幾人かに分けて贈呈してしまっている。

 仕方なく、残りの雑銭の中から拾って検証してみることにした。

 なお、鉄銭については、鋳所が分かる「ものもある」という認識になる。

 鉄銭はほとんど仕上げをしないので、地金と砂目くらいしか手掛かりがない。型作りや湯温を調節すれば、外見上、殆ど同じものが出来る。

 よって、以下の判断はおおまかなものだ(正確ではない)。資料を再確認したりせず、記憶だけで記すので幾つか間違いも生じると思う。

 

①仙台銭

 石巻銭は高炉鉄を使用したが、一度取り出した鉄を、もう一度反射炉?で溶かして、鋳銭を行ったようだ。(これは紙に書かれてあることではなく、鉄の素材から判断したものだ。記述を信用すると、辻褄の合わないことが出て来るので、現物からの実証が必要になる。)

 高炉から溶けた鉄が流れ出ると、下にプール上の四角い枠に入る。この餅鉄が主な産出品で、鉄銭の多くは高炉の「副産物」として生まれる。

 

 古貨幣収集家は、自身の見たいものしか見ないので、総てを「鉄銭座」と見なすが、盛岡藩であれば、鋳銭のために形成されたのは大迫、栗林のみ。橋野以下釜石方面では、あくまで「高炉」になる。

 ちなみに橋野高炉では当初、銑鉄を大迫、栗林に卸していたが、後になり栗林銭座で高炉を建設したので、その分の製品が宙に浮くことになる。そこでそれを解消する目的もあり、自身も鋳銭を行うようになった。

 仙台藩では、盛岡藩から高炉製造技術を学び、その後は素材に利用したが、高炉の溶鉄を直接使わずに、一旦、固めた後、もう一度溶かして鋳銭したようだ。地金が揃って居り、質の良い鉄が使われている。

 

②本銭系

 本銭系として見なすのには、少し見すぼらしく、実際には「どれとも言えない」品だ。

しかし、一目でそれと分かる品は、総て贈呈してしまった。地金、砂目の似ているものを「とりあえず掲げた」というように解釈願いたい。大迫から栗林、橋野については、「高炉鉄が基本で、砂目が揃っている」という特徴がある。

 

③中間系

 どこがどうともはっきり言えぬもの。鉄銭はきれいに鋳出されぬことが多いわけだが、そういう品は委細分からない。

 郭が抜けて居り、密鋳銭だと思うが、砂目は本銭寄りとなっている。

 

④初期の山内銭(浄法寺銭

 最初の鋳銭では、砂が調達できず、山砂を砕いて使用した。

 北奥地方では鋳砂の産地が殆ど無かったようで、銭を密鋳するにはこの「砂の調達」が課題としてあった。公営の大迫でも同じ状況だったから、盛岡藩水戸藩の小梅藩邸に役人を派遣して、指南を請うた。その際に水戸藩の母銭を貰い受けるとともに、砂の調達方法についても伝授されたようだ。それ以後の鋳銭は格段に進歩したが、それが出来銭でも伺える。

 

 なお、鉄銭を入札やオークションで買うのはあまり意味がない。「どこからどのように出たのか」が分からぬことが大半だからだ。各地の古道具商に足を運び、その地元の「出所の知れた」ウブ銭を入手する必要がある。

 私は鉄銭の多くを盛岡や鹿角の古道具商で買い受けたが、座銭固有の銭種を発見すると、それと同じ差し、同じ地金の品は「概ね同じ鋳所のもの」と見なすことが出来た。

 山内(浄法寺)の鉄銭の場合は「背盛異足宝」がその標識銭となる。

 なお、その判定のためには、錆を落とす必要があるわけだが、数枚ほど確認出来れば、あとは触らずとも良くなる。

 

⑤これは何?

 さて、眼に留まった品の話になる。

 一瞥では、地金、砂目は本銭系だ。この場合は大迫か栗林。

 ただ、画像では分かり難いが、銭径がかなり小さい。栗林には小様母銭があるので、強いて言えば栗林の方だ。

 だが、右側の穿には明らかにさっくりと刀が入っている。

 もっと不自然なのは、表面にきらきらと輝く点が散らばっていることだ。

 (これも画像では判別し難い。やや大きめの個所のみ印を付けてある。)

 よく見ると、どうやら雲母のようだ。

 鉄に雲母が混じるのは、川で採取した砂鉄をそのままたたら炉で溶かす場合に現れる特徴だ。

 たまに「砂笵の離れを良くするために雲母を振った」と言う人がいるが、そういう技法は、石膏や粘土で型を取る時の話である。

 

 ただ、前にも書いたと思うが、「事実は書いてあることとは違う」ことがよくある。

 大迫では「橋野高炉から銑鉄を買い入れて、これを原料とした」と記されているわけだが、銭座跡に行き、川辺の地面を掘り返すと、砂鉄経由のものやづく鉄を溶かして作った美銭までもが発掘できた。

 近隣の百姓が銭座を焼き打ちした際に、銭座が焼け落ちたわけだが、その廃物を川の傍に捨てたので、以前この地からは枝銭の壊れたものなどが出土した。

 そのことで、「実際には、高炉から銑鉄をかったし、大野・軽米方面からづく鉄も買った」ことが分かる。公認のビジネスなので、どこから調達するかはそれほど問題ではない。あるのは「儲かる」かどうかと言う判断ということだ。

 

 なお、当品については、「型がかなり小さく、穿への強い加工も入っている」ことから、「出来の良い密鋳銭」の可能性が高いという鑑定意見になる。

 実際のところは分からぬが、鉄銭の鋳所の推定は斯様に、「困難を極める」ジャンルとなっている。

 加えて言えば、今はネットが浸透したから、地方を訪ねてもウブ銭は買えなくなっている。救いは、いまだ鉄銭には研究者がほとんどいないことだけだ。

 

 注記)「世捨て人」の雑感であり「一発殴り書き」で、推敲も校正もしません。不首尾は多々あると思いますが、「せいぜいそんなもの」とご了解ください。

 

 追記)家人の依頼で関係小学校に五百~一千枚ずつを贈呈している。そういうのが幾つも重なると、さすがに在庫が減って来る。行方不明の役モノが混じっている可能性があるのだが、いつか思わぬところで誰かが発見して喜ぶかもしれぬと考え、そのまま贈呈することにした。どうせ神社の境内にも撒いているのだから、大して変わらない。

 ちなみに、唐銭通宝や試鋳貨らしき未見品も行方不明になっている(苦笑)。