日刊早坂ノボル新聞

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◎病棟日誌「悲喜交々」1/31  「死はわが友」

病棟日誌「悲喜交々」1/31  「死はわが友」

 先日、血圧が異常降下した折に、それが正常域に回復して行く途中で眼球内で少し出血した。このため、この日は最初に眼科の検診に行き、それから腎臓病棟に行く段取りとなった。

 眼から出血するのは、多くの場合、糖尿病性の網膜症のことが多いのだが、腎臓病患者は血圧の上下向が著しいので、硝子体の毛細血管から出血する。

 医師によると、やはり血圧が急激に下がり、今度はこれが上がったことで、血管が破れたということだった。

 特に治療の必要が無く、経過観察に。

 ま、持病の無い人でも、中高年になると、飛蚊症くらいにはなっていると思う。あれは血の塊で、軽度ならやはり高血圧の影響だ。トシで血管がもろくなっているところに、血圧が高めになるから、どうしても破れやすくなる。

 眼科に行っても、何か手(治療)を入れるわけではなく、自然治癒を待ち、それを観察する程度。これが糖尿病性の網膜症なら、新しく出来た毛細血管を「レーザーで焼き払う」という治療になる。これはもの凄く痛い。

 眼科の診察は一人ひとりに長く掛かるから、病棟に戻れたのは昼頃だった。

 本来の治療が終わるのは三時台で、当方が最後の患者だった。

 午後には入院患者が治療に来るのだが、そういう患者がいなかったところを見ると、あのお茶農家のオヤジさんも姿を消したようだ。

 

 気の持ちようを替えるだけでも、命が長持ちしたりするから、こちらから話し掛けて励ませばよかった。しかし、やはり他人の「生き死に」に関わることには、躊躇してしまう。最近は、自分が見聞きし感じたことを割とそのまま表に出すが、死も、その手前の病気にも実感の伴わぬ者からすると、「気の触れた者のたわごと」に聞こえるだろうと思う。

 パブロフの犬並みに「とにかく否定する」人が大半で、それが当たり前だ。何故なら誰もが「死ぬのが怖く、知りたくない」からだ。

 あのオヤジさんなら、肩にかかった手を「ご神刀切り」で振り払うだけで、ひと月かふた月は延命できたと思う。

 襟首のところに手が掛かっているのを見ており、どう対処すればよいかも分かるのに、ただ手をこまねいて見ているだけなのはすごく歯がゆい。

 「病気以上に、あれでは苦しいだろうな」と思うが、その説明をじっくりする時間が、あのオヤジさんには無かった。

 何事も、その場になってからでは、もう遅い。

 自分が死ぬことなど「はるか遠くにも見えぬ」状態のときに、心身魂のコントロールを学び、実践する必要がある。

 ひとそれぞれのステップが違うので、文字テキストで説明してもあまり意味がない。あの世は主観的に構成されている面があり、自分の死後を良くするには、自分自身の主観的世界観をじっくりと観察する必要がある。

 お経や祝詞を一万回唱えようが、写経を何千回やろうが、仏像や石に何千万の金を出そうが、それだけでは何の意味もない。「生きる」ためには役立つが、「死ぬ」ためには役立たない。無駄ではないが、道楽と同じで、沢山やっただからと言って何かが変わるものでもない。

 「あの世」はスポーツや勉学のように、習練によって開発されるものではない。

 一方で、オヤジさんの死期が幾らか伸びたにせよ、それでもせいぜいひと月かふた月だ。有機体の寿命には限界があり、いくら幽霊の寄り憑きを除去しても、必ず終わりは来る。

 延命によって、むしろ苦痛が長引くかもしれん。

 私のいる病棟はほとんど「終末病棟」だから、七十台半ば以降にここに来れば、もはや残りの時間はあとわずかだ。

 建設的な活動などは出来ず、ほとんど寝たり起きたりのままだ。その期間をいくらか伸ばしたところで果たして意味があるのか。

 その時間を遣い、「自分自身の生を振り返り、来るべき死を見つめる」なら、前進は出来ようが、そういう心境には、まずもって至らぬと思う。

 もはやそんなことなどは考えられなくなっている。

 

 結局、「天は自らを助くる者を助く」ってことなのか?

 だが、現実には、まだ死なずに居られるのに、自他によって「寿命をどんどん切り詰めている」者がいる。

 これは本来のあるべき姿とは違うから、どうしても目に留まってしまう。

 考え方や振る舞いを替えることで、死期が先延ばしになる筈の人は僅かだが、さらにその殆どが、助言に耳を傾ける準備が出来ていない。

 

 勘違いする人が多いが、信仰(宗教)は「よく生きる」ためのもので、「上手に死ぬ」ためには、あまり役立たない。死は万人に等しく訪れるもので、無宗派だ。

 

注記)時間が勿体ないので、推敲も校正もしません。日々の日記であり書き殴りなので、誤記や誤りは多々あると思う。