

◎一人で映画を観に行った
息子が就職したので、平日のレイトショーを二人で観に行くことが出来なくなった。親子付き合いと、健康に不安のある父親の介助をして貰うので、何かと都合が良かったが、これからは原則として一人で行動することになる。
週末は人出が多くて、持病のある者には無理だ。
月曜は久々に映画館に行くことにした。
だが、夏休み前のせいなのかこれという映画が無い。
とりあえず「クワイエットプレイス」にしたが、3はあまりウケていないらしく、やっている館が少ない。
かなり遠いか、あるいは上映の時間帯が早い。
入間は朝イチ上映だが、隣町なら行けそうだと思い、そこに行くことにした。途中で渋滞があればアウトで、次回が午後三時頃だから、もし渋滞に嵌ればこの日はキャンセルになってしまう。
ヒヤヒヤしたが、九時少し前に着いたので、初回の上映に間に合った。入場が全部機械になっていて、しかも現金を入れるスロットが無かったので、少しマゴマゴした。
さすが九時十分開始で、客は当方を入れて三人だけ。
当方はぎりぎりコーレイシャではないつもりだが、他はコーレイシャだ。ま、そうは言っても、ショーガイシャだから大差はない。
この映画は宇宙から来たバケモノが出る映画だが、主軸はそこではなく、ひとの心情の方だ。
1作目が父親の家族に対する目線で描かれた。
2作目は、その父親の娘(耳が聞こえない)の心情に寄り添って構成された。
予備知識なく行ったので、3作目もまたあの母子たちが出ると思っていたが、まったく別の登場人物だった。
だが、描き方は同じで、今回は「死期の迫った女性」の心に軸足が置かれていた。
難しいのは、映画と言う表現では「心の中を表わす」術が限られることだ。心中の葛藤とか思い入れを、表情やしぐさでしか表わすことが出来ないから、どうしても限界がある。
小説なら5秒で考えたことを3分の文章で表現できるが、映画は詳述できぬから、伝わらない部分が生じる。
心情を伝えるには、一人称が一番手っとり早いのだが、映画は三人称の表現が多くなる。POVでは映像的な限界が生じるから、それはそれで問題が生じる。
どんなことを考え感じたががはっきりしないところがあるから、それが結果的に分かり難い印象を与え、客入りに影響したと思う。
もちろん、前2作の意を酌んで、「こんな感じのことを描きたいのだな」とあたりを付けて眺めると、充分に楽しめる。
こういうのは、どうせなら女性脚本家、女性監督に任せれば、もっと繊細な表現が出来たと思う。
一人で映画を観るなんて、二十歳台の頃以来ではないか。
若い頃は女性と一緒で、子どもが出来てからは子どもたちと一緒だった。
独りでは寂しいかもと思っていたが、むしろ一人の方がスクリーンに集中できるかもしれん。
ちなみに、二十台の頃に「独りで観た映画」なら、週末の名画座のレイトショーやにっかつ映画だった。
その当時と似た状況なのは、この映画館の席数が150くらいしかなかったことだ。
劇場の貸し切りも出来るようなので、いっそのこと映画館を借り切って、ゆっくり観る手もアリだ。
だが、『アラビアのロレンス』を観るにはスクリーンが少し狭い。せいぜい『セーラー服百合族』がいいとこかもしれん。
昔のホラー映画ならサイズ的にちょうど良いかも。
映画館を出たが、まだ昼前だったので、ラーメンを食べることにした。最近、血圧が下がるようになったので、前は禁忌食品だったラーメンが食べられるようになった。
街道筋に有名チェーン店が林立したが、それを横目で見て、昔馴染みの店まで五キロ余計に運転して行った。
当方の舌は保守的で、いつも決まった味の方が落ち着く。
椅子に1時間座ると血行が滞り、気分が悪くなるのだが、肘や大腿から先が痺れて動かなくなる。
映画だと、やや容量オーバーの感がある。看護師さんの友だちを作る必要があるようだ。病人のリスク回避のためだが、そのお礼に褒めちぎるので、たぶん、いい気分になれる。