日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎敵を知らば

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私に集まる幽霊。私が特別ではなく、皆の周りにもいる。

敵を知らば

 連日、血圧が二百超え。さすがに調子が悪い。おかげでこの日(七日)も検査になってしまった。

 今週は患部毎に検査を受けているから、ほぼ毎日病院通いだ。

 「通い」と言っても、七時前に病院に入り四時頃まで居るから、九時間に及ぶ。これなら、入院しているのと変わりない。

 検査の合間に、自分のベッドに戻り、ごろごろとしているわけだが、その時間を、看護師と世間話をして過ごしている。

 やはり、オバサンやオジサンの方が話しやすい。

 

 検査待ちの間に師長が来たので、小さい依頼をした。

 師長は「疑いなく幽霊が存在する」と分かるような画像を見ているので、病院では唯一、「あの世」の話も平気だ。

 「仕事柄、色んな患者さんを見ているだろうけれど、『お迎えに会った』という人はいましたか?」

 「話には聞いていますが、テレビドラマみたいなものばかりです」

 「直接、『自分のところにお迎えが来た』という人は無かったのか」

 ま、そりゃそうだ。現実に「お迎えが来た」なら、殆どの者が、あの世に連れて行かれる、ということだ。戻っては来ない。

 そこで、私の遠縁の金太郎さんの話をした。

 末期がんで「最後の退院」をして家に居る時に、玄関からずけずけと男が中に入って来た。

 自分を連れて行こうとするので、金太郎さんは「ちょっと待ってくれ。俺はまだ一緒に行くわけにはいかない。今はまだし残したことがある」

 すると、青黒い顔をした男は「それならまた改める」と言い残して、家から出て行った。

 金太郎さんは「余命あと僅か」の筈だったが、それから一年後に亡くなった。

 

 「この話が残っているのは、お迎えが帰ってから、割合、時間があったからなんだよ。金太郎さんだけでなく、私にもお迎えが来たことがある」

 何年か前に、心臓の治療を受けた後、ベッドに座っていたら、唐突に病室のドアを開けて二人組が入って来たのだ。

 自身の体験談は幾度も書いたから、ここでは省略。

 

 「私はこういう話を集めているんだよ。もし、お迎えがどういうヤツで、どういう対処をすればよいかが分かったら、死期を幾らか先延ばしに出来るかもしれないからね。そこからの時間は他のものには代えられぬ貴重な時間になるだろう」

 師長はお迎えの外見に興味を持ったらしく、「どんな感じのヤツか」について、詳細に聞いていた。

 ま、外見は普通の人間だ。だが、とにかく「凄まじい」。

 ひと目で「コイツはこの世の者ではない」と悟る。これは私だけでなく、誰でも一瞥でそれを知ると思う。

 師長は「では、仲間から聞いて置きます」と答えた。

 「でも、何故、今になり調べ直したりしているのですか?そのうちまた来るかもってことですか」

 「遠巻きにしてこっちを見ている実感があるからだよ」

 実際、原因が見つからぬのに、あちこち具合が悪くなっている。

 

 金太郎さんが一年で、他には半年という人もいた。

 私は何年も(六七年)生き残っており、今のところ最長不倒期間だ。

 普通なら「気のせい」「気の迷い」といって片付けられそうな出来事でも、過去に一度でもアレに会ってしまえば、万事をお迎えと結び付けて考えるようになってしまう。

 今からでは遅いのかもしれんが、ひとまずもう一度、「敵を知る」ことからやり直そうと思う。

 ちなみに「己を知る」方は生涯無理だ。自分自身に関することが最も把握し難い。

 

 画像みたいなのは、多くが不鮮明だから、別の言い訳がつく。

 だが声の方は、脳内で起きているとは到底思えぬ。

 扉を隔てたり、かなり離れたところから聞こえるためだ。

◎光が干渉される(604)

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令和三年十月六日撮影

◎光が干渉される(604)

 このところ、「背後に何者かが寄り添っている」という感覚がある。

 また、自宅の階段の灯りが途中で消えたり、誰もいない部屋や廊下で物音が響くなど、気配がすこぶる悪い。

 体調が悪いこともあり、火曜日はフルコースで検査を受けた。

 この日は、朝から歯科医に行ったのだが、割合早く終わったので、お寺に行き、そこからまた神社に参拝することにした。

 

 結論を先に書くと、背後の気配が何であるかという問いへの答えがばっちりと出たわけではないが、「あの世」的異変の起きる兆候については、幾らか分かりよい素材が得られたと思う。

 

 何気ない景色の中にも、理屈に合わぬ異変が含まれている。

 普段は気に留めず、スルーしている筈だが、よく考えると有り得ぬのだ。

 

 最も分かりよいのは、掲示最後の画像だろう。

 いずれも神殿正面のガラス戸を撮影したものだが、最右と二番目のガラスの継ぎ目付近に、背後の景色が映っている。

 左画像では、建物の屋根が映っているわけだが、右側の白い雲のようなものは、実は同じ屋根だ。

 曲がっているところを見ると、光の「当たり方」ではなく「進み方」が違うので、こんな風に見えるということ。

 困ったことに、左図では屋根の後ろに樹があるのに、右図では樹は屋根の前にある。

 写り方自体が不自然なので、ここは追検証が必要なようだ。

 

 画像は基本的に撮影順に並んでいるわけだが、初めから三枚目のように、景色事態がぐねぐねと曲がったり、「(幽界の)霧」や「煙玉」が出たり、「稲妻または電線状の光や煙」などが現れた後に、大きくデフォルメされるようだ。 

 いつも同じ地点から撮影するので、何がどう見えるかについては承知しているつもりだが、次は、私の撮影位置(定点)から、別の人が撮影したらどう写るかを確かめる必要があるようだ。

 

 ちなみに、やはり私の後ろには、まるで隊列のように「何か」もしくは「誰か」がつき従っていると思う。だが、これは「私に関わる者」であって、他の者には関係がない。

 子どもの頃から、幾度となく「数十万の亡者が後ろをついて来る」夢を観て来たのだが、何かしら、無意識のうちにそれと悟っていたのかもしれぬ。

 現実に体調が著しく悪化しているので、「(この世にいることの)進退伺い」が必要な状況のようだ。

 

 いずれにせよ、お寺と神社の両方に参詣・参拝してみると、つい昨日までの絶望感が小さくなっていた。解決には程遠いが、前向きには転じている。

 まだあやふやな点が多いが、今年の秋は、きちんと証拠らしい証拠を出すところまで行こうと思う。

 正直、かなり具合が悪く、心臓が時々しゃっくりを起こすような毎日だから、「あの世」を解明する前に心停止する可能性があるが、ま、死は終わりを意味するものではないからどうにかなる。あるいはなるようになる。

◎ご供養に行く

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令和三年十月六日、日高聖天院にて撮影。

◎ご供養に行く

 水曜は朝から歯科医に行ったのだが、割合早く終わったので、その足でご供養に行くことにした。

 背後にゾロゾロと連れて歩いていることは、気配で分かる。

 こちら側への線を踏み越えているので、まずはご供養をし、それでも船外に出ないようなら、お祓いをすることにした。

 ま、既に昨夜から「ご神刀斬り」は始めている。

 少なくとも、電灯を消したり、どたどたと足音を立てたりしても、私はそっちの思う通りにはならないと示す必要はある。

 

 どのお寺に参詣するか思案したが、「座る場所がある」という条件から、聖天院にした。

 参拝客がお焼香を自由に出来るのもよい。

 だが、雷門を潜ったところで足が止まった。

 「ダメだ。登れない」

 階段が急で、四十度くらいの傾斜がある。おまけに、最初が五十段、二番目が百数十段だ。今の私の心臓なら、最初の五十段の途中で往生する。

 

 しかし、左右を見ると、六地蔵が並んでおり、焼香が出来るようになっていた。

 お線香など焼香用具なら常に車に積んである。

 

 この六地蔵は「六道救済」のための地蔵菩薩だ。人が死ぬと、天道、人間道、修羅道畜生道、餓鬼道、地獄道に進んで行くが、どの世界にも、仏は救いの手を差し伸べてくれる。すなわち六地蔵は「六道救済」のための地蔵菩薩だ。地蔵菩薩が六つの世界へ赴くために姿を変えたもので、死者が良い世界に生まれ変わることを願って建てられる。六道への対応関係は以下の通り。

 天道…日光地蔵

 人道…除蓋障(じょがいしょう)地蔵

 修羅道…持地(じじ)地蔵

 畜生道…宝印地蔵

 餓鬼道…宝珠地蔵

 地獄道…檀陀(だんだ)地蔵

 

 さて、地蔵さまの前でお焼香をして、少し左側に行くと、馬頭観音の石碑があった。

 馬頭観音は、怒りに満ちた馬の像を表すが、人差し指と薬指を折り、他の指を立てる「馬口印」と呼ばれる印相を結ぶ。頭上には馬が表現され、この馬が「煩悩を食べ尽くし、打ち砕く」と考えられている。

 「それなら、今の俺にぴったりじゃないか」

 ここでも手を合わせた。

 

 この次は、後ろについて来ている者たちに告げる番になる。

 「他の誰が目に留めずとも、私には分かるから、これこの通り、お前たちを慰めるように努める。繰り返しご供養するから、いずれは執着を解くとよい」

 もちろん、これには続きがある。

 「だが、一線を越えて、生ける者に手を出したり、災いをもたらしたりするのであれば、切り捨てるので、自分の居るべき領域を出ぬようにしなさい」

 慰めても分からぬ者には、お仕置きが待っているということだ。

 「どっちが良いか、よく考えてみよう」

 

 線香が燻っている間、境内で過ごした。

 その間、階段ではなく、スロープから降りて来る人たちがいたから、なだらかに上り下り出来る道があるのかもしれぬ。確かに正面の急階段はお年寄りや病人にはちと無理だ。

 だが、そのすぐ後に七十台くらいの老夫婦が階段を降りて来た。

 「俺はあの夫婦よりも体が弱っているらしい」

 少しがっくりするが、ま、年齢ではなく状態が問題ということだ。

◎スーパーで新高梨を買った

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スーパーで新高梨を買った

 近所の人や病院の患者に配るために、スーパーで新高梨を買うことにした。

 家人も周囲の教員に「日頃のお礼」として、「リンゴか梨を買う」そうだ。

 当方は梨をひと箱買って車につけた。

 車で待っていると、家人がやって来て、果物の箱を後ろに積んだ。どうやら同じ箱らしい。

 助手席に乗ると、家人はダンナに「梨を幾らで買ったの?」と訊く。

 「1999円。新高梨だが、二十世紀や長十郎はもう終わってるからな」

 すると、家人はくすくすと笑い、「もしかすると私は999円で買ったかもしれないよ。レシートはどこだっけ?」と財布を検めている。

 「そんなことはないだろ。六個入りサイズの新高梨だもの、ひとつ350円くらいはする。大体は二千円を少し超える」

 家人はレシートを探すが、どうやら袋詰めの時に落としたらしい。

 「箱で約千円じゃあ、一個が百五六十円という話だ。アリエネーよ」

 「十月は神無月なそうだから、私はきっとツイてる。だからきっと安くして貰っている」

 でも、バーコードでカウントしているから、値引きが反映されておらず、書いてある値段より高いことはよくあるが、安くなった験しは無い。

 家人は「私だけサービスして貰った」と自慢げだ。

 そんな筈は無いから、自分のレシートを検めることにした。

 財布から出して調べると、あんれまあ、当方のも「999円」だった。

 思わず、「こんなの。その場で気付かねーのか?」と自分を疑う瞬間だ。

 ま、かごを渡してしまえば、あとはぼーっとしていることがほとんどだ。

 

 「バーコードに登録する時に、担当の者が入力し間違えたか、あるいは、値札書きの方が間違っていたかのどっちかだな」

 でも、大半は札に書いてある値段より、レジの方が高いことがほとんどだ。

 しかも、いいトシのオヤジが「値引き分が反映されていない」と文句を言うのは格好が悪い。百円二百円のことで、レジの流れを止めるのも憚られる。ま、違っていても黙って払う。

 もちろん、店を出る時には「何だよ」と少し腹を立てたりする。

 

 「レジの時に、店員が打ち間違えたら、まあ普通は『それはいくらだよ』と訂正する。黙っていたら客の方がごまかしたような気分になるからだ。でもこういう場合はどうなんだろ。バ-コード通りだし」

 少し考えたが、そのまま帰ることにした。

 たぶん、手で書く値札よりも、バーコードのほうが正価だと思ったからだ。ワンクッションだけ人の手が少ない。

 自分が商店育ちだから、つい店側の都合を考えてしまう。

 この手のミスは、同じ系列の商品が一様に同じミスになるから、割合、欠損が膨らむ。

 店員が熟練すると、ほとんど無くなるが、忙しい店だったり、開店仕立てだったりすると、時々起きる。

 売り場の管理職がチェックするか、品質や値札のチェック担当の者を充てれば、ロスがかなり減ると思う。

 

 ちなみに、時期的にまだ二十世紀や長十郎が残っていたりするので、新高梨は売れていなかった。箱が全然減っていない。

 だが、「1999円の箱が実際は999円で買える」ことが知れたら、一瞬で売り切れると思う。

 ここは開店したばかりだから、割と客が多いのだが、「これも集客の仕掛け?」かと思ってしまう。

 

 ずっと「新高梨」のことを「シンコー梨」だと思っていたが、これは「ニイタカ梨」らしい。思い込んでいた理由は、別に「南高梨」という品種があるからだ。

 さらに「ニイタカ」と聞くと、反射的に「ニイタカヤマノボレ」のことかと思ってしまうが、これも違う。(この場合の「新高山」は台湾の山だ。)

 梨の「新高」は、新潟と高知の品種を掛け合わせたものだが、「ニイコー」では語呂が悪いので、「ニイタカ」になったようだ。

 

 ちなみに、家人が「十月は神無月だから」と言った件は、前に私が「神無月には全国の神さまが出雲に集まる」から、「一年の中で最も幽霊が出やすいのは十月から十一月」という話をしたことがあったからだ。

 私や家人は「どちらかと言えば、自分は魑魅魍魎の仲間のほう」という考えで一致する。 

◎古貨幣迷宮事件簿 「Oさんの思い出」

◎古貨幣迷宮事件簿 「Oさんの思い出」

 平成の前半に、NコインズO氏と共に八戸銭の研究をしていた時期がある。

 花巻の例会が終わった後に、藪屋に行き、そこで「どこをどう見るか」の議論を交わした。

 例会の後に複数の会員と食事をした時には、それが終わった後に店舗の方でやはり議論をした。

 

 店にいると、品物を売りに来る客を度々目にする。

 持ち込まれるのは多くがらくただ。

 コインはあっても、ほとんどが雑銭で近代貨の値の付かぬ小銭ばかり。

 だが、壊れた眼鏡や簪のような品物にも、O氏はきちんと「これはどういう風に使われたものですよ」と説明し、かつ何がしかの値を付けていた。

 客が帰った後、思わず「スゴイですね。間違いなく廃棄処分になるものなのに、いちいちきちんと対応しておられます」と言うと、返事の詳細は忘れたが、O氏は「快く対応したら、また来るだろうからね」と答えたと思う。

 次に何か出れば、また売りに来るし、親戚や知人にも口コミを回す。

 出来そうでなかなか出来ぬことだ。

 

 当時は「会として」鑑定評価を行い、買い取りもしていたが、来るのは黄銅やアルミ貨のような代物ばかり。あるいは終戦間近の大量に発行された紙幣だ。

 並品の銀貨に、カタログの記載価格をいちいち記して送り付ける人も多い。

 「これで買え」というわけだ。「店で売っている値段」など論外で、「売価には業者の経費や利益が含まれる」みたいなことが想像できぬ人が多い。

 店頭価格の五六割が実力だが、市況によって上下する。いわゆる「仲間相場」で買っても、ビジネスとしての意味はない。 

 コレクションを一括処分しようとすると、概ね購入時の三割くらいまで下がる。

 収集家は好きで集めるわけだが、資産としての市場価値が保証されるわけではない。売れ残りは一切売れぬから、そのリスクを軽減すれば、その水準になる。

 けして業者が「騙している」わけではない。右から左に売れる品ではなく、市場の仕組みとしてそうなっているということだ。

 黄銅やアルミ、あるいは並年並品の青銅貨にはほとんど値が付かない。

 O氏のように、客の家にさらなる品が眠っている可能性がある場合は、親切な対応が出来るわけだが、一見の者の「売れ残ること必至の雑銭」に値を振って快く受け入れていたら、到底、「身が持たぬ」と思う。実際、一年で倉庫の十二畳の部屋二つががらくたで埋まった。二百箱を超えるダンボール箱がぎっしりと積まれたわけだ。

 こういうのは、時々、神社やお寺の片隅に「まじない銭」として撒くくらいしか使い道がない。

 結局、そういう手法では「対応が出来ない」という結論になり、窓口を閉鎖した。

 (それでも、勝手に送って来る者が後を絶たなかった。記念貨の両替ですら手数料を取られるのが普通だから、交換して欲しいと思う人が多かったのだ。)

 

 冒頭の話に戻ると、O氏が亡くなってから、八戸銭について議論することはなくなった。

 殆どの収集家が興味を持っていないためだ。

 型分類に多少の関心を持つ者でも、「過去の銭譜に掲載済みの母銭」数枚を持てばそれで終わる。

 極端に言えば、八戸銭は母銭にしても一枚一枚の型に小異がある。

 原母を彫ったものから派生したのではなく、石巻銭やその他の一般通用銭に端を発しているのだが、中間段階の品がほとんど見付からない。

 そのことについて、「何故そうなのか」と思う人は少ない。

 普通の穴銭のように型分類で思考すると、既存の銭譜には一枚二枚しか記載されていない筈の型(分類)が、あっという間に何百種類に増えて行く。

 よって、その考え方(分類志向)では、『南部鋳銭考』から一歩も抜け出ることが出来なくなる。

 この分野では、まずは系統的な理解、すなわち鋳銭工程に関する解明が不可避であるように思う。

 

 O氏の店頭で感銘を受けたのは、自分には出来ない態度・姿勢だと思ったからだが、しかし、私は業者ではないのだから、それが出来ぬのも当たり前だと思う。

 収集・研究は世間にお小遣いをばら撒く奉仕活動ではないわけで。

 

 さて、古文献等の資料の方は、ウェブ窓口経由ではなく、直接、所蔵主の許を訪れることで収集したものだ。そうやってコツコツと集めるのには、少なくない労力と費用がかかる。

 見ず知らずの者から挨拶も無く、「ください」と記すだけのメールが来ると、さすがに怒りでキレそうになる。ものを頼むには、それなりの礼儀があるからだ。

 「自分はこういう者で」と名乗る者すら少ない。

 SNSの友達申請みたいなノリで、ワンクリックで誰もが応じてくれると思ったら大間違い。

 こういうのは、PCではなく、足で集めるべきものだと思う。もちろん、著作権に抵触しないのであれば、資料を集めた者が自ら情報公開するのは構わない。

 

 O氏のような先輩がこの世を去ってしまい、初めて「もはや教えてくれる人はいない」ということを実感する。

 今では、半日をそこで過ごせるような古道具屋や骨董店が激減しているから、奥行き・深みのある情報に接することは出来なくなった。

 その意味で、若い収集家にとっては困難の多い時代になった。ま、ネットで検索しただけでは、「何一つ得られない」ことは自覚すべきだ。

◎古貨幣迷宮事件簿 「青銅貨の保存が難しい件について」その2

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青銅貨の保存が難しい件について(2)

◎古貨幣迷宮事件簿 「青銅貨の保存が難しい件について」その2

 まだ若い頃、三十歳になる前だったと思うが、花巻のNコインズを訪れた際に、Oさんが和紙の包みを出して見せてくれた。

 包みの中は、円銀の明治三年が二枚で、白い粉を吹いたような色合いだった。

 「これは県内で出た品だが、何故ここにこういう品があるのか、分かりますか?」
 記憶では、出所は確か「北上」だった。

 少しく考えさせられる。そもそも近代貨には興味が無いから、知識が乏しい。

 「円銀は貿易決済用で国内にはほとんど流通していません。国内で使ったのは五十銭ですね。そうなるとほとんど未使用の円銀がこの近くにあるのは想像がつきませんね」

 すると、O氏は笑って説明してくれた。

 「明治半ばに東北本線が建設されたのですが、その土地代金として明治三年(の円銀)が支払われたのです」

 東北本線の開通は明治二十二年だから、それは少なくとも明治十年台の話になる。

 土地代金なので、大きな金額となるが、幕末から明治初めに盛岡藩が紙幣を乱発し、そのほとんどが紙くずと化した記憶が残っていたから、農民は紙の紙幣を信用しなかった。

 そこで、昔のように銀で払ったのだ。

 その代金はほとんど使われてしまったのだろうが、たまに幾枚かを残してある家がある。箪笥の奥や、金庫に仕舞われたまま残っていた、ということだ。

 「興味はないかもしれんが、見て置くと良いですよ。百年保存した銀貨はこういう状態になる」

 勉強になる話だ。「今」にはそれにいたる道程があるということ。「過去」がきっちり反映されているし、反映されていることが信用になる。

 

 さて、金融機関の金庫に眠っていた貨幣の話に戻る。

 一時期、こういう連絡が沢山入って来たのは、やはり「最初にウェブを公開した」からということだ。

 だが、寄って来るのは近代貨や記念貨ばかりで、穴銭や資料類はほとんど来ない。

 そのうちに、普通品の近代貨が山積みとなり、買い入れ自体を止めることになったのだ。これは前回記した通り。

 だが、時々、面白そうな状況が耳に入る。

 「金融機関(農協や信金)の金庫に入っていた」

 「元職員が保管していた」

 冒頭の円銀の話と同様に、何かしらの背景があるのかもしれん。

 

 掲示の龍一銭は、前回の出所と同じで、大半がただ同然に貰ったものだ。(大量の銀貨のオマケだった)

 ほとんど流通していないのだが、やはり錆が浮く。

 傷が殆どないのに、「極美」はともかく「普通品」では、幾らか可哀想だが、これは仕方が無い。ま、今、残っているのは状態が劣る品で、錆の見えぬ良い品は流出した。

 半銭は別ルートだったと思うが、割と錆の少ない品が多く、これは次から次に売れた。銭種として「変わりもの」が多いという性格もある。 

 好きな品を指定して貰い、入札形式で売却したのだが、競る人が割といて下値で落ちた例が少ない。銀貨で相当な赤字を出していたので、これは助かった。

 

 銀貨の方は青銅貨ほど錆の腐食が激しくなく、黒錆(トーン)以外に気を遣わずに済んだのだが、打極後に落ちたり運ばれたりする時に、割合打ち傷が付くようだ。

 それでも、鏡みたいに表面色がきれいな品が存在するから、青銅貨よりも幾らかましだ。

 

 この青銅貨や銀貨を出して見せたら、「なぜ・どうして」と考える人なら、「どうやって保存されていたか」という疑問がわく。一枚二枚を業者やオークションで買ったものでないのは明白だから、必ず疑問に思う筈だ。

 そこで、集まりの時にバラバラッと出して見せたが、銭自体を見るのみで、疑問に思った人はほとんどいなかった。(正確には「一人だけいた」で、その若者には御褒美に、一番状態のよい一式をタダであげた。三十枚近くの未使用青銅貨だから、ひと言への褒美としては十分過ぎたろう。) 

 「どこから出た」「どういう風に仕舞われていた」は、鑑定にも役立つ情報なのに、それを訊ねる収集家はあまりいない。(「蔵から出た」なら、「どこの蔵か」くらいは訊ねるべきだ。そして機会があれば、その蔵に行って見ると良い。「訊ねて、訪ねる」ということ。最も怪しい出所が、この「蔵から出ました」だ。)

 ま、諸氏の名誉のために言えば、収集家の集まりに出るのは、ほとんどが穴銭を集める人だと加えて置く。興味が無いから、疑問も湧かない。私ももちろん、スルーする。

 だが、近代貨コレクターなのに「この銀貨は洗ってある」と言う人がいた。

 「使われていない品」と「洗った品」の区別がつかないのだ。たぶん、ロール割を見たことが無いのだろう。買い出しの現場や当事者のところには行かず、専ら、業者や入札を通じて集めているということだ。(これぞ「正体見たり」。)

 もちろん、これは批判のつもりではないので、念のため。

 昨今は地方の古道具屋や骨董商が激減しており、リサイクル業者に交代してしまった。コイン店自体、地方には殆ど無くなったのだから致し方ない。

 リサイクル業者では絶対に得られぬもの。それは蘊蓄だ。

 ネットオークションを、品物をやり取りする機会として利用する人も多いだろうが、単なる売買だけでなく、そのついでにひとつ踏み込んで、裏側を訊ねてみるとよい。

 「これはどういうところにあった品ですか?」

 「真贋はどこを見ればいいのですか?」

 コレクターの多くは「説明好き」だから、喜んで詳細を語ってくれたりする。

 私はそのやり方で、複数の中国人等と知り合いになった。

 

 ちなみに、貨幣は概ね地金よりコイン評価の方が高い。ところが、銀だけは相場の上がり下がりによっては、コイン相場を上回る。

 小型五十銭などは、常に銀地金としての価値が上回る。

 銀貨については、反応が鈍そうだったので、銀地金として大半を売却した。五六年前に、ある人の遺品整理を手伝ったことがあり、その時に売れ残りの銀貨を引き取ったのだが、やはり先日これも「銀地金」として一括で処分した。

  貴金属相場が上がった時だったので、この分は赤字にならずに済んだ。

 未使用・極美級の品だけ幾らか残してあるが、やはり私には興味が無いので、息子にやるか、あるいはこれという若者にでもくれてやろうと思う。

 この場合の通過儀礼は、かつてO氏より与えられた題のように、「何故この品がここにあるのか」にしようと思う。当たり前だが、「洗ってあるの?」はアウト。

 

 注記)いつも通り、一発殴り書きで、推敲や校正をしません。死に掛けの状態なので、他者への配慮もしません。今後は明確な根拠を挙げて批判もします(悪口ではない)。

 ちなみに、O氏の傍で学んだことは、買い取りの際に「品物をけなさない」「ひとをけなさない」ということだ。「良い品を安く手に入れたい」と思うのか、コレクターには真逆の人が多い。まず開口一番に「けなす」のだが、これは「欲しい」という意思表示になっている。そういうのも「お里が知れる」。

 それとは別に、こっそり他人のブックからコインを抜いて行こうとする者も結構いる。

 こういうのを観察するために、普通品の中に「役付きを混ぜて置く」ことをしていたが、まだましなのは「詳細を見ぬふりをして一括で買おうとする」者だ。だが、良い品だけをこっそり抜いて行く者も割合いる。そういう事情で、骨董の収集家たちからは「古貨幣・コイン収集家は一段低く見られている」のが現実だ。

 

◎夢の話993夜 母を迎える

夢の話993夜 母を迎える

 四日の午前一時に観た短い夢です。

 

 我に返ると、目の前に母が座っていた。

 「ありゃ。ここはどこだろ」

 俺と母はどこか知らぬホテルのロビーでソファに向かい合って座っていた。

 どうやら、明日、俺は所用でどこか北の街に行き、そこから戻ると母を連れて罰の場所に車で行くらしい。

 「明日はどうするの?ホテルを取った?」と母が俺に訊く。

 「今は誰も移動しないから、予約なしでも大丈夫。新幹線を降りてから電話する。もしなければ、明日のうちにこっちに戻るから」

 「じゃあ、私はこのまま家にいるから」

 

 ここでぼんやりと思い出す。

 母は今、郷里の実家に住んでおらず、どこか別の場所にいる。

 俺は北の街から戻ると、今度は車で母の家に行き、一緒にどこかに行くことになっていたのだ。五時間ほど車で移動することになっているようだ。

 しかし、その行き先がどこなのかが分からない。

 関東のような気がするから、叔母(母の妹)のところなのか。

 

 ここで、俺の頭にはうっすらと別のことが思い浮かんだ。

 「あれ。母は二年前に死んだのではなかったか」

 しかし、目の前には、母がいて。しっかり微笑んでいた。

 母はまるで五十台のよう。

 俺は何かふわふわと自分が床から浮いているような、妙な心持ちだった。

 

 「じゃあ、俺が迎えに行くまで、少しだけ待っててくれ。用事が済んだら、すぐに戻るから」

 すると母が答える。 

 「お前が迎えに来るって?いや、私の方が迎えに来たんだよ」

 俺は思わず絶句して、母の顔を見詰める。

 ここで覚醒。

 

 目覚めた時には、私は恐怖に震えていた。

 「まさか明日だったとは」

 夢と現実との区別がつかず、事態の急変について行けなかったのだ。

 私は明日か明後日、母と一緒に旅立つ。

 母を車に乗せて、どこかに去るのだが、それは「母を連れて行く」のではなく、「母が迎えに来た」のだった。

 その意味は、あと残り二十時間から三十二時間後には「死ぬ」という意味だった。

 唐突に「終わりの到来」を告げられるが、残っているのはその時間しかない。

 心の準備が出来ているつもりだったが、その実、「明日死ぬ」とは思っていなかったから、恐ろしかったのだ。

 母が来たなら、二度目の延長はもはや無いということ。明日の死を逃れることは出来ぬのだ。

 体が小刻みにぶるぶると震える。

 

 起きている時の私は「死後の存在」を確信しているが、かたや夢の中の「俺」はまだ信じていなかった。先がどうなるか分からぬことが恐怖の原因だった。

 

追記)「自分が死ぬ夢」は、夢の中でも「吉夢」の最たるものなのだが、この夢ではそれを言わずに、「長距離移動」と「お迎え」で暗示するだけ。それなら、到底、吉夢ではないようだ。