◎見落としていた (昨年の振り返り)
最初の画像は、極めて分かりよい構図なので時々、このブログに掲載するものだ。
境内には私一人だったが、ガラスには複数の人影が映っている。
分かりよいのは、私の左腕を掴む「白い女」と、右側から胸に手を差し込む「白シャツの男」になる。白シャツの男は、ついその数分前にいた男性とそっくりな服装なのだが、髪の毛の長さが違う。身を隠すために化けたのだろう。
この手の画像は波長の関係なのか「鮮明には写らない」という特徴がある。
本物であればあるほど不鮮明になる。
ところで、ついつい私の周囲だけを見てしまうのだが、少し画像から目を離して見直すと、どうやら柱の陰にも人影がいるようだ。
不鮮明だが高齢の女性のよう。
すぐ隣に「左眼」も出ているので、本物だろう。
いわゆる「心霊写真」の場合、画像のどこかに「写真を見る人を確認する視線(眼)」がある。これが出ていれば、人影が鮮明かどうかはあまり関係がない。
ただ、基本的な姿勢としては、画像の中に「眼」を感じたら、さりげなく視線を外すのが適切な対応だ。相手が見ているのは、「見えているかどうか」「波長が合うかどうか」ということで、もし、これと見込まれると、どんどん乗り込んで来る。
いつも書く通り、ひとに影響を与えられるのは「こころ」だけなので、自身を顧みる習慣を持てば、何の悪影響もない。
たまたま同じ構図の画像があったので、これを開くと、神殿に上る階段に着物姿の女性のような後ろ姿が見える。
たすき掛けの紐が見えるのだが、こちらは判然としない。
声も出ておらず、まずは「気のせい」の範囲だ。
九月に撮影した画像になっているが、春先のものではないか(日時の打ち間違え)。
この年の春先には、草模様の柄の着物を着た女が複数回画像に残った。
あの世の者は「見て欲しい」「聞いて欲しい」から姿を見せる。
その多くは声を上げて「助けて」と叫ぶ。
意思が分かれば、何らかの解除が可能になるが、ただ現れるだけでは手の打ちようが無い。