◎霊界通信 神社にて同級生のご供養
「神社で供養」とは言葉の言い回しがおかしいようだが、私にとっては「入り口」「出口」の関係なので、矛盾がなく不自然でもない。いつも双方で同じことが起きる。
しばらく前に「かつての同級生の訃報」受け取った。
亡くなったのは出身高校の同級生女子なのだが、私は小中高と同じ学校に通ったから、十二年間同じ学校で過ごしたことになる。
だが、その十二年間で一度も同じクラスになったことが無く、殆ど話をした記憶が無い。これが都会のマンモス校の話ではなく、小学校が2クラス、中学校が3クラスの学校規模で、高校は8クラスあったが、文系は3クラスだけで両方が文系だった。二年に一度くらいはクラス替えがあった筈だが、1/2や1/3の確率を6回繰り返しても、一度も当たらなかった。
中1の時に数か月だけ同じブラスバンド部に所属したことがあるが、私はすぐに「自分には向かぬ」と思い退部したから、やはり交わした会話はひと言二言だけだ。
実家の隣に住んでいた同級生女子も、小中が同じ学校だったが、同じクラスになったことが一度もない。
すぐ近くにいたのに「同じクラスになったことがない」のは、この二人だけではないか。
ひとの関りは気まぐれに出来ている。
どういう人なのかを殆ど知らずに来たわけだが、交流のないままその女子は去って行った。
あの世に神仏の境目はないから、「穏やかな心で先に進んでくれ」と祈念した。
(何かに触れたらしく、ここでキーがフリーズした。暫く待って再立ち上げした。)
その後で、いつも通りセルフチェックをした。
さすがこの地は七八百年前には古戦場だったところで、一般に言う霊場だ。いつも画像に光や煙が入るし、人影が写ることもある。
あの世に馴染みが無い人に分かる一例を挙げると、三枚目の画像で、私の体を透過して、背後にある手水場の手摺(柵?)が見えている。
日光と水蒸気の関係で、白煙や光が写り込んだりするから、最初は自然現象かと思っていたが、背景が前に出たのであれば、左の白煙は霊霧だったようだ。
私の周りには例によってあれこれ集まっているのだが、見えぬ人には見えぬし、見える人には説明が要らぬので、今後は特に注記をしないことにした。
セルフチェックは自分の状態を観察するために行っているので、自分が悟り、生き方死に方に役立てられるのであれば、それでよい話だ。
お稚児さま(座敷童)に会ってから、「間近な死」を考えずに済むようになったが、障害者なりの体調はそのままだ。立って歩けるうちにあれこれ済ませて置こうと思う。
同期K女子は私より先に逝ったが、次は当然、私が筆頭候補だと思う。
ちいなみに、以前「三番目のあの世」について記したが、あれは生前に「死後に眼を伏せ、あの世で同処すべきかを考えなかった」人が行くところだと思う。
あの世(幽界)は「自分が思い描いた心象」が現実となり目の前に現れる世界だ。何のイメージも描かず、心構えも持たぬ者には、暗黒の無間地獄が待っている。
追記)やたら肩が重いわけだわ。びったり乗られている。さすが十月は分かりよい。
夜中の三時に眼が覚め、癒し水を供えた。