日刊早坂ノボル新聞

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九戸政実の人物像 その1

寛政重修諸家譜』では、浅野家伝として、九戸政実が浅野長吉に申し出た降伏の条件は、一に「南部信直の所領の安堵」だったと書かれています。明らかに三戸サイドになるはずの記述の中で、この部分がとりわけ異彩を放っています。
何せ九戸政実にとっては宿敵である三戸南部の所領を安堵してくれという内容です。
これに対し、政実同様に三迫で斬首となった櫛引清長や大里修理は、南部信直に深い恨みがあったので、死の直前まで信直を罵っていました。

元来、政実には領土拡大の野心があったわけではなく、三戸の侵攻によって不本意ながら戦場に立たされるのですが、その状況にあって政実が考えていたことは北奥全体の行く末でした。
なぜそう言えるかというと、もし北奥を我が物にしようという気持ちがあるのなら、まだ信直の勢力が不確かな段階で攻め落としてしまうことが可能だったからです。

ちなみに、この書では、宮野城二の丸で焼き殺されたのは「余百人」になっています。
別に蒲生氏郷の家臣の記した文書では確か2千人前後とされていたと思います。

では、なぜ二の丸で城内の5千人が焼き殺されたことになったのでしょうか。
宮野攻防戦では、攻め手の方は1回の攻撃で600~700人死んだようですが、そうなると7、8回の攻撃により5千人くらいは死んだことになります。この結果、腹が立って城内の者を皆殺しにしたくなったのと、自分の側の損害の方が大きいことを隠すために、総てを焼き証拠を隠滅したのだろうと考えられます。

また、56歳の政実に子が亀千代1人だけだったとは考えにくく、戦が本格化する前に、何人かは逃がしていたのではないかと思われます。実際、津軽の家臣にも九戸の末裔がいますし、他にもいくつかの地で九戸の子が逃げてきたという伝説が残っています。さらに降伏の前夜にも相当数の守備側の人間が、大浦、安東の陣を通って落ち延びたようです。

総じて、武人としての政実は、数千人規模の戦の経験しかなく、「戦の天才」と称されるほどであったかどうかはは不確かですが、少なくとも思慮の深い人であったことが伺われます。
前年の豊臣による小田原攻めの際にも、上方に密偵を送っていたようですし、奥州仕置きの後すぐに起こった葛西・大崎一揆の実情を、政実が「知らなかった」り、「無視していた」、あるいは「その機に乗じて挙兵しようとした」というのは、ナンセンスな話であり、南部方の作り話と考えられます。