◎光と煙(473)
年始は神社が混雑するので、少し参拝の間が空いた。
前の週にも二度ほど神社の前を通り掛かったのだが、駐車場が満杯だったので入るのを止めている。
さすがに三週目で、さらに平日なら駐車場にも入れるようになっている。
今夜は雪になるようなので、神社に来る途中でスタンドに寄り、タイヤを交換して来た
さすがにどんよりと曇っており、もはや「薄暗い」というほどだ。
参道では、この先の身の処し方について考えた。
昨年辺りは、時々、「幽霊や化け物など、得体の知れぬ相手に掴まっている」写真が撮れたのだが、結局、その後、さしたる異変は起きなかった。
おそらく、私の周りにびゅうびゅうと煙玉か光玉が出ているので、それを目指して寄って来るのだろうと思う。しかし、だからと言って何をするわけではない。
要するに、私のことを「仲間」だと見なしている可能性が高いようだ。
ま、心停止を経験しているし、今も体調的には、半分以上、「棺桶に足を突っ込んでいる」状態が続いている。半ば以上はすでに仲間だ。
それなら、神殿で祈願することはひとつだ。
「この後は、自分が皆さんの仲間だと思って行動する。幽界の住人の側に立ち、良かれと思えることをする。皆さんが私の目で物を見て、私の耳で聞いても構いません」
要するに、この世とあの世の「橋渡し」をしようということだ。
それなら、しばらくの間は、私を生かして置かねばならない。
その時間を使い、原稿を書いたり、あの世についてもっと掘り下げることが出来る。
そういうことを祈願した。
たまたまその時、周囲が急に明るくなった。
カメラに電源を入れると、周囲に白い煙がぱあっと出ていた。
「あ。幽界に繋がるところだな」
カメラが旧式なので、電源を入れてから撮影が出来るようになるまで十秒くらいかかる。
この「霧」を是非とも撮影しておこうと思ったのだが、撮影が可能になった時には、霧はほとんど消え去った後だった。残念。
現界(世)と幽界が繋がる時には、概ね「きらめき(シャイニング)」と「霧」の二つが現れる。
おそらく太陽フレアと関係しているのではないかと勝手に思う。
赤外線や、電磁波、放射線に変化を及ぼすのは、それ以外に考えられないからだ。
前に駐車場で異変が出た時があったが、それに先んじて上空がぱあっと明るくなっていた。
眩しいくらいの明るさだが、肉眼ではほとんど違いが分からないところを見ると、赤外線など不可視域の違いではないか。なお紫外線については、まだ確かめたことはない。
また、電磁波が変化すると、頭が重くなったり、心臓に影響が出たりする。
身体と同様に、「心霊現象は電磁波が原因だ」と主張する者もいる。
さらに、放射線量では、毎時0.30マイクロシーベルトを超えると、十分くらいで喉元が痛くなる。人体に影響があるのだから、他の影響もあるかもしれない、等々。
もちろん、それぞれ人によって程度が違うと思う。
いずれにせよ、人体への影響と、幽界に起きる事象は、必ずしも無縁ではないと思う。
画面では見分け難いと思うが、この日の画像には、参拝客の女性に背後から前に手を回して、女性を掴まえているものがある。
拡大図より、遠目からの方がむしろ判別が容易なのだが、ひと目で判別出来るのは、「前にも見ているから」だ。
半年くらい前、同じ神殿前で、私自身が「全身が白く、おそらく上半身裸の女」に掴まえられている画像を撮影したことがあり、それと状況がよく似ている。
なお、この女性に「何か悪いことが起きるのではないか」などという心配は要らない。
幽霊が寄り付くのは、「自分と似たものを持つ」か、「助けて欲しい」「助けてくれる」と見なす相手だけだ。
相手が普通の精神状態であれば、幽霊はそのまま付いて来たりはしないものだ。
ま、「彼が奥さんと別れて、私と結婚してくれますように」みたいなことを神仏に願ったりしていれば、やはり話は別になる。
しかし、これを見せたのは、専ら私へのメッセージだと思う。
その直前に「仲間だと思って行動する」と祈願しているから、それへの返答ということではないか。
ほかの人には判別が難しいが、私には分かるというケースでは、主にこういう理由であることが多い。(もちろん、もしくは単なる「気のせい」の場合だってある、と付け加えて置く。)
昨年とは違い、今は身の回りでざわざわと「説明のつかない現象」が起きる頻度が少なくなった。「他の説明がつく」か「気のせい」で済ませられる範囲なら、日々を穏やかに過ごすことが出来る。幽界の住人が騒がなくなって来たのも、もはや「こちらが受け入れた」ことが伝わったということなのか。
しかし、幽霊の気持ちを癒し、代弁するということは、おそらく現界(世)の者に負のメッセージを伝える局面も来るのではないかと思う。
死者に敬意を払わぬ者、または死者を軽んじたり、もて遊ぶ者には、熾烈な「祟り」を渡すことになるのだろう。
ちなみに、幽界から来る「祟り」は、映画や小説に描かれるそれとはまったく違う。
幽霊は専ら心に働きかけるのだが、生きている間の変化はそれほどでもない。本番の「祟り」は死後にやって来て、かつその「祟り」に終わりはない。
そんなことにならないためにも、「よく生きること」、「どのように生き、死ぬべきかを十分に考えること」が必要になって来る。
この世のモラルとあの世の善悪は理屈がかなり違うから、ひと筋縄ではいかない。