日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「文久期寛永銭の追究」(続)

◎古貨幣迷宮事件簿 「文久寛永銭の追究」(続)

 およそ「奇跡」などというものは起こり得ぬものだと思っていたが、自分自身にそれが起き、暫くは死なずに済むようになった。もちろん、重篤な持病があるので「暫く」とは半年一年の範囲の話だ。だが、この数年は毎年、「あとひと月持たない」と思う段階を経験しているので、そこからまた現世に戻って来られたのは奇跡以外の何物でもない。とりあえず半年くらいは生きられると思う。

 そうなると、「宿題」のことが頭をかすめる。他にもやるべきことは多々あるが、可能な限り「やり残したこと」を減らして行けば、死後に迷ってこの世に彷徨い出る可能性が減る。

 ということで、文久寛永銭」についての考察を再開することにした。

 と言っても、殆どのコレクターには通じぬ話だ。コレクターの九割は「分類思考(志向)」で、その多くが分類のことしか考えぬ「分類バカ」だから、話の意味が通じない。

1. 天保通寶は何故生まれた?

 さて、ここで質問だ。これはあなたが「分類バカ」かそうでないかを判定する尺度のひとつ。

 「宝永通寶十文銭から天保通寶当百銭が誕生するまで、130年近い間隙がある。天保通寶は何故出来たか」(回答時間は5秒)

 言葉を替えると「天保通寶は何故天保通寶なのか」。

 

 この答えはゴタゴタと紙に書いてあるわけだが、幕府の「金座でどうのこうの」が頭に浮かんだ人はまぎれもない「分類バカ」。ここは答そのものの内容ではなく、立ち止まって「ありゃ。なんで天保通寶なんだろう?」と考えるかどうかの違いだ。

 何故「天保」「通寶」なのだろう?

 何故「当百」なんだろう?

 一応の答え方の例は「飢饉があったから」だ。

 天保通寶が製造されるようになったのは天保六年。天保三年頃から断続的に続いた飢饉は全国を襲い、餓死者が何万人も出た。その頂点が五年六年で、大塩平八郎一揆などが起きたり、藩札が乱発されたりした。幕府は鎖国政策を執り、ずっと内需型経済だったから、物価の変動が小さく、掛け蕎麦は長らく十六文のままだった。

 だが、飢饉によって物価が高騰する。富を持つ者と持たぬ者との貧富の差が拡大した。大店の商人や本百姓は、飢えた百姓たちに、土地を担保に高利の金を貸し、結果的に土地を取り上げた。これで明治以降の財閥の基礎となる豪商や一つの町や村を抱える豪農が誕生した。「お大尽さま」「昔からのお金持ち」は実は災害を利用した搾取の産物だ。ちなみに、悪行はいずれ自分たちに返って来る。

 これが天保期に起きたことで、要は「高額額面の採用は、極端にインフレが進んだからお金を扱いやすくする必要があった」というもの。

 ついでに、金属の量では、寛永銭六七枚で百文の価値が生まれるので、作る側が儲かった、と言う側面もある。

 

 さて、貨幣の表書きが変わった、もう一つの事例が「文久永寶」だ。

 額面はそれまでの背波銭と同じく「当四文」通用の筈だが、それまでは「寛永通寶」という表書きで通用して来たのに、何故に「文久永寶」に切り替えたのだろう?

 これを紐解くには、「変わったこと」を探ればよい。

 ま、これは簡単に見付かる。

 

2. 文政から文久への切り替え

 下図は文政期寛永当四銭50枚と文久銭50枚とを比較してみたものだ。

 一瞥で文久銭の方が短くなっているのが分かると思うが、この違いは要するに「厚さ」で、文久銭の方が二割近く薄い。

 これを重量で見ると、251gから183gと、2割を超えて減量となっている。

 要するに、規格変更の主眼が「材料の節約」に置かれていたのは疑いない。

 この場合、既に「寛永通寶」という決まった様式があるのに、何故に「文久永寶」という新名称を付けたか。

 ひとつのヒントはまさにその「規格変更」で、金属材の使用量がまるで違うものを流通させると、交換相場が複雑になる。銅と鉄、あるいは銅銭の間にも、交換相場が存在していたから、同じ名前で、同じ素材の銭を分けるのは紛らわしい。

 実際、差し銭では、寛永銭と文久銭を「分けて括る」ことの方が多いように見受けられる。ひとまず「当四銭」として発行するが、経済の実情を踏まえ、仕様も変えたのだろう。

 ここまでが前提もしくは背景だ。

3. 文久寛永銭(仮)の起源を探る手法

 さて、文久銭とまったく同じ作りの寛永銭を発見したことを、これまでに幾度か報告して来た。経緯については繰り返しになるので省略するが、末尾に前回の掲示物を添付して置く。

 これをもう一度、再検討するが、ひとまず最初に戻り、「文久手の寛永銭」という認識から始める。「文久銭のような」なら「文久様」の方が語感的に合うが、この用語は他銭種で既に使用されており紛らわしい。よって、仮の名称だ。

 この2枚の「寛永通寶」の銭文は「小字」と分類されるものに近似しているが、果たしてどれくらい似ているのか。これを検証して行く。

 まず最初に、図2に基本的な流れを記した。

 要するに、同じ起源を持つものであれば、鋳造技法の特徴から、必ず「相似形」になる。この間に生じている変化があるなら、それは鋳造の工程上生まれたもので、人の手による改変が関わっている。

 

4. 明和小字から文政小字

 「小字」の先行種として知られているのは「明和小字」「文政小字」である。

 結果を先に記すと「違いは殆ど無い」。

 まず明和と文政の各「小字」について、似た部分、似ていない部分を抽出する。

 拓影を基に、二つを重ねてみると、面文はほぼ一致しており、背波にもごく一部の相違しかない。配置の一致度から見て、同じ源(原母)に期限を発するものと見ることが出来る。背波は母銭製造の段階で、加刀などにより生じたか(図3)。


5. 文久寛永(仮)その1と2

 銭文のよく似た「文久寛永小字」の2枚を重ねてみると、面文では「永」字、「寶」字に若干の相違が見られる。ただし、幾ら文字が潰れていることと、若干の曲がりが生じていることの影響かもしれぬ。

 一方、背波については、割とはっきりした相違が見られる(図4)。

 これがどういう要因で生じたものかは、今のところは確定できない。

 ここでは「背波に形状の相違がある」とのみ記す。

 

6.明和・文政小字と文久寛永小字

 明和、文政の小字と文久手の小字2枚をたすき掛け方式で重ねてみると、予期される通り、「面文がほぼ一致(2の潰れを考慮)しているが、背波については改変が加えられている」ことが分かる。

 ここで分かることは、次の二つ。

イ)面文については、明和、文政と同様に起源を同じくする母銭を使用している。

 サイズの調整幅が1%程度の違いしかなく、通用銭を基(改造母)にした写し(密鋳銭)ではない。要するに正規の公営銭座の製作となる。

ロ)背波については改変が加えられている。

 ここで思い起こすべきは、冒頭の「文政と文久の違い」の件だ。

 ここでは「厚さ(重量)を減らす」改変があったことが明確である。

 同じ母銭を使用して、厚さを減らす最も簡単な手法は、「片面削り落とし」から「面背を貼り合わせ」るというものだ。

 ここからは推定になるが、「量目を減らす」という目的に従って、母銭を表面だけ残して半(背)面を削り取り、別の母銭の表面を削って半(背)面だけ残すわけだが、この場合は、元の母銭は2枚必要になる。

 この時に、波形の少し異なる母銭を選んだか、調整のために加刀したので、背波の形状が変わった、のではないだろうか。

 あるいは、稟議段階では、既に「文久永寶」の仕様も候補として挙がっていた。

 「寛永通寶」とするか「文久永寶」とするかを考えつつ試作する段階で、文久永寶用として作成した背波片面を故意または偶然に合わせた、ということも考えられる。

 いずれにせよ、背波は明らかに小字の波ではない。 

7. 直感は割と正しい

 穴銭を観察する時の心構えとして、従来から言われて来たのが、「まずは背から」眺めろということだ。理由は様々あるが、「製造工程が分かりよい」「改変(加工)が少ない」や、あるいは「偽物を製作する者が軽視しがち」であることも要因だろう。

 (ちなみに、雑銭の会では「輪側から」になっている。これは工具機械がもっとも少ない箇所だからという理由だ。)

 この文久寛永を手に取って見た時に、「これは公営銭座のもの」で「密鋳銭ではない」ことが見て取れた。まず一点目は鋳砂だ。これには良質の珪砂を使用しているが、珪砂は水晶や石英を砕いて作り、専用の鋳砂は高額だから地方の密鋳銭では使われない。北奥なら山砂がいいとこ。

 二点目は「母銭」で、正用の母銭を使用している。江戸で作られた。

 材質には錫を多用しており、焼け銭の黒さとは丸で異なる表面色となっている。

 最大の焦点は「背波が文久銭のもの」であるということだ。

 これは寛永銭や文久銭を見慣れていれば、一目で分かる。実際、確かめてみると、波の形状がまったく異なっている。

 その意味では、「まずは背から」眺める習慣は正解だった。

 

 ここで、ようやくひとつの見解に辿り着く。

 「この品は文久期の寛永通寶で、文久の銭改鋳の試作段階で候補の一つとして作成した」

 たぶん、幾人かはそれと気付かずに持っていると思う。

 ペラペラの貧相な銭で、どこもかしこも「文久銭」だ。稟議銭なのか、少数の実用銭だったのかは、類品が出て来ないと分からない。小異があるところを見ると、たぶん、後者だと思う。

 そうなると探してみる気になった筈だ。譜外品であることは疑いない。

 

注記1)文中の「明和小字」「文政小字」の拓影は、(株)ハドソン・東洋鋳造貨幣研究所「新寛永通寶図会」より借拓のものである。

注記2)PC内の資料を基に、一発撲り書きで記しており、推敲も校正もしない。これは既に古貨幣の収集と研究を卒業したためだが、もちろん、表現に不首尾はあると思う。あくまでエッセイの範囲として書いている。

 ひとつだけ伝えるべきは、「何故」「どうして」「どのように」作ったかを考えるようにすると、「新しく新鮮な世界がパアッと拡がる」ということだ。

 分類手法のように、お金をはたいて高額な銭種を何枚も集める必要がないから、若者には向いている。だが、収集自体は古銭書を読めばそれで済むが、鋳銭過程、鋳銭工程に眼を移すと、社会経済や鋳造技術など広範囲な理解が必要になる。

 若者に対し、繰り返し、「古銭の収集など止めて、外に出て色んなものを見ろ」と助言するのはそういう理由による。若いのにPCとコインを眺めているなどサイテーだ。

 しかもやることが「分類」で、いかにもジジくさい。そんなのはジジイになってからやれ。

  見渡す限り、とにかく「分類バカ」ばかりであきれる。先人の作った銭譜を有難がり、それをちょこっと改変して増やすことに精を出している。眺め方を変えると、もっとはるかに広いし、面白い世界が待っているというのに。