日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 R061202 トレードダラーの話 その1

古貨幣迷宮事件簿 R061202 トレードダラーの話 その1

 三年前に危機的状況が訪れ、繰り返し「もうひと月ももたない」と覚悟した。食欲が全くなく、体重が激減。最もキツかったのは心肺症状で、横になって眠ることが出来なくなっていたことだ。体を倒すと胸が苦しくてたまらぬので、長椅子に直立した姿勢で仮眠を取るか、あるいはテーブルに突っ伏した状態で眠った。常に自分用の酸素ボンベを携帯するほどだ。

 腹を括って、コレクションを総て処分することし、投げ売りに近いかたちで手放した。売れぬ品は、これを役立てられそうな人に勝手に送った。

 物によってはかなりの安値で売ったが、品物を遺して死ぬよりはまし。当人が亡くなって遺族が処分するとなると、コレクションの詳細は分らぬから一括売りになる。それなら2割か良くて3割まで落ちる。内容を知る当人が一つひとつを処分するのがもっとも良いのだが、それには入手した月日と同じくらいの時間を要する。

 最近はただ梱包して、「形見分けです」と送る状態だったが、それもあと少し。いよいよ本棚の後ろの段ボールに差し掛かった。

 皮肉なもので、今年の春から心臓が持ち直し、もう半年かひょっとすると1年くらいは生きられるかもしれん。奇跡というものは、案外起こり得るのだと痛感した。

 ま、自分で努力して改善されたわけではなく、家人と思い出づくりのため出掛けた旅館で「座敷童」に遭遇したことによると思う。それが分岐点で、そこから状況ががらがらと変わり始めた。

 過去の「偉人の話」には聞くが、座敷童はあくまで伝説の域の話だ。実際に存命の人で「それらしき子どもに会った」という具体例は絶えて知らない。座敷童は人に福をもたらす妖怪?だが、私にとっての最大の幸運は「生命を繋ぎ、創作活動を続けられること」だから、あの子は実際に最大の幸運をもたらす福神なのだと思う。

 

 とまあ、前置きが長くなったが、今はようやく三十年以上前の足跡に辿り着いた。

 掲示の品は、主に二十台の頃までに集めていた品で、長らく放置してあった。

 中高生の頃に、最も憧れに近い思いを抱いたコインは、やはりトレードダラーだ。その名の通りの貿易決済用銀貨で、日本にはそのまんま「貿易銀」という貨幣がある。

 ただこの貨幣は中高生にとっては、夢のまた夢の存在だった。それなりの状態の品で十万円はするコインだから、とても手が届かない。

 一円銀貨(円銀)も同様で、基本は貿易用で、世界で流通しているトレードダラーを念頭に置いて作られた。

国内流通は五十銭銀貨が主流だったから、「蔵から円銀が出て来た」ケースは少ない。

 

 国内で円銀が「蔵から出る」ケースは、ほぼ明治三年のことが大半だ。

 これは明治中期になり、鉄道敷設のための用地買収に際し、代金として明治三年の円銀が使用されたことによる。「ご一新」からまだ十数年しか経過しておらず、農民は紙の明治銀行券にさほどの信頼を置いていなかったからだと言われる。

 ま、百円あれば、平屋の一軒家が建てられた時代だから、これが一枚の紙幣では確かに心許ない。

 

 花巻のNコインズOさんに「蔵から出たばかりの明治三年」を見せて貰ったことがあるが、やはり北上付近で「鉄道用地買収の代金」として受領したもので、包み紙にそう記してあった。

 和紙で1枚ずつ包まれ密閉されていたが、表面は粉を吹いたような白色だった。

 「百年仕舞っておいた銀貨はこういうのが自然の色ですよ」

 それを見てからは、鑑みたいに輝くピカピカの銀貨が気に入らなくなった。気持ち悪い。

 まるでアメリカ人が最新式の機械で作ったような色合いだ。

 変色、時代劣化はむしろ時間を証明する要素だ。これを除外して、とにかく未使用をありがたがる気持ちが分からない。     (続く)

 

 注記)文字がよく見えず、推敲や校正をしないので、誤変換等、不首尾は多々あると思います。

 気になる人は来ないでください。ブログはただの日記で、基本は自分用のメモをそれを開いておいてあるだけです。