◎霊界通信 R070305「高校生の周辺」
◎霊界通信 R070305「高校生の周辺」
幽霊は生きた人間の可視域の境界線上にいるから、目視することが難しい。
あの世(幽界)は、TPOが目視に合致した瞬間にだけ、垣間見ることが出来る。
カメラやガラス映像は、目視しやすくするアイテムだが、それでも多く不鮮明で、判別が付かぬことが殆どだ。例えて言うと、浴室の曇りガラスの向こう側にいる人影を見る程度の鮮明さにしか近付けぬのが現状だ。
こういう状況で、幽界の理解を進めるためには、「環境条件を揃える」くらいしか手立てがない。私が、いつも同じ場所に行き、同じ位置に立って、日光など光の角度を観察しながら撮影するのは、「変化を捉える」目的による。
どの場所、どの角度で撮影すれば、ガラス窓に何が映るかを承知していれば、本来そこには無い筈のものが映った時に、それと知ることが出来るようになる。
もちろん、それも何百回、何千回の反復施行の後で得られるものだから、初めてその証拠(画像)を見た者には何が映っているかなど知りようもない。
曇りガラスの向こうでシャワーを浴びているのが誰かなどは、その影を始めて見た人には分からない。男女すら見えぬかもしれぬ。だが、それをいつも見慣れている者なら、それが「妻」だったり「愛人」だったりの区別がつく。何故なら、頻繁に同じもの見ているからだ。加えて、その時々の「状況」も加味される。その浴室のある部屋がファンシーなホテルだったら、「女房じゃない」のは明白だ。
三月三日の画像で「ここに高校生がいる」と指摘するのは、時々、この周辺で同じ姿を見て来たからだ。
多くは最寄り駅の構内で、改札口を出た30㍍ほどの場所に一人で立っている。
誰かを待つわけでもなく、ただぬぼっと立っているが、駅の中ではありふれた景色なので、誰も気に留めない。私もまったく気付かなかった。
ある時、私は家人を迎えに行き、改札の近くで待っており、この高校生を見た。
チラ見程度だが、生身の人と何秘湯変わらぬので、気にならない。
だが、眼を離した、ほんの一瞬後には、その高校生の姿が消えていた。
1秒かそこらの時間だが、数十㍍の範囲に高校生の姿はない。
これが最初だったが、その後にも、時々、それと同じ高校生を見ている。
いつも同じ服装で、制服にネクタイ。リュックを背負っている。
このリュックが「やたら重い」と感じるが、この「重い」と言う感覚は高校生ジsんのものだろうから、たぶんどこかで接触したことがあるのだろう。
幽霊は感情だけの存在で、感情は波の性質を持つ。直接触れ、さらに同調した場合には、相手のことが何となく分かる。この場合の「分かる」とは心情的なもののことで、どこの誰だとか、知識に関連することは分からない。
高校生は、自分がん是そこに居るのかが理解出来ず、ただ何となく立っている。たぶん、生前と同じ行動を繰り返しているのだろうと思う。
首にずれがあるので、自死したのではないかと思うが、その痕跡はよく分からない。
と言うか、知りたくないので見ぬようにしている。誰彼構わず関わるつもりはない。
現状でも煩さすぎるほどだ。
生きた人間(生者)が「幽霊」を認識し難いのと同様に、幽霊の側からも生者を認識し難いが、これは「五感を持たない」「脳(思考能力)を持たない」「自身の思いに囚われている」ことなどによる。他者を認識するのは、専ら感情で、喜怒哀楽の起伏によって相手を知る。
私は幽霊の側から見付けやすい存在のようで、後ろにゾロゾロとついて来る。
たぶん、一度心停止を経験したことと無縁ではないと思うが、それ以前から幽霊は観ていたから相乗効果のようなものがあるのかもしれん。
何ひとつコントロールが出来ず、常にその場しのぎの対応だ。統制できぬものは能力とは言えぬから、世間でいう霊能力とは無縁だ。ま、そもそもそんな能力など存在しない。感情の波を感じ取って、想像したり妄想を抱いているだけ。
心霊写真を自分で撮影して見せる自称「霊能者」は存在しないが、能力があるなら簡単な話だと思う。でもいない。三輪車に乗って「私は道のことが分かる」と自称するようなものだ。
二月二十九日の画像では、手水場の向こう側に女が現れたが、これは状況的に見て不思議な画像だ。ガラス戸が前後二枚あり、景色が左右二重に映っているのだが、手水場が二つあるのに対し、その後ろの石碑は三つあるように見える。その右側の二つの間から年配の女が現れている。
二十九日の時点で「見られた(存在を知られた)」かもしれんと思ったが、三日のものを見ると、傍に来ていたようだ。
もちろん、今は「呼び寄せている」のと同じ状況だから、これはこれで構わない。
望むところに連れて行こうと思う。