日刊早坂ノボル新聞

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『死の国』ノート 11)死霊を祓う方法

『死の国』ノート 11)死霊を祓う方法
 話し手:神谷龍慶、聞き手:早坂ノボル

■お経の効用
(早坂)「さて、生ける者の前に現れる『霊』とは、事実上、幽霊や悪霊のことで、我々にとってあまり望ましい存在ではないようです。しかし、それは物語や想像だけではなく、現実に存在しています。そういう現実に対し、我々はどのように向き合って行くべきでしょうか」
(神谷)「具体的には、幽霊や悪霊から悪影響を受けないようにするための方法は何か。そういうことですね」
(早坂)「映画の『エクソシスト』では、神父が聖書の文言を並べ、少女から悪霊を追い出そうとします。日本でも、神道では死霊祓いの祝詞、仏教ではお経を唱えることで、悪霊を遠ざけようとします。聖書や祝詞、お経を総称して真言と言い換えますが、その真言はどれくらい効き目があるものなのでしょうか」
(神谷)「残念なお知らせになるのですが、それらの真言自体に力はありません。『開け、ゴマ』と唱えれば必ず入り口が開く。そういう呪文は存在しないのです」
(早坂)「しかし、神父や僧侶、霊能者が霊に憑依された人から、真言によって悪霊を追い出す場面が、時々、報道されていたりします。あれはどういうことでしょう」
(神谷)「真言そのものによりもたらされた効果ではなく、念の力です。般若心経は、仏教の真言ですが、神道でも死霊払いの祝詞として使用されることがあります。神職や僧侶は毎日、これを読経することで、次第に文言に念を込められるようになります。その念の持つ圧力で、悪霊を追い出すのです」
(早坂)「観自在菩薩、と唱えること自体に効き目があるわけでは無いのですか」
(神谷)「そうです。お経の持つ意味を考えつつ、救済を願う心を込めて、何百回も読経をする。そのことで念を込められるようになります。幽霊、悪霊を成り立たせているのは、執着心や悪意ですが、それは念と極めて近いものです。よって、強い念を向ければ、霊は圧力を感じ取り、そのままではいられなくなるのです。もちろん、そういう念の力を生むまでには、繰り返し修業を積む必要があります。お経は、修業を積んだ僧侶にとっては重要な武器になりますが、普段、それと縁の無い人が、困ったからと言って急に唱えても、何の効力もありません」
(早坂)「ははあ。なるほど。野球に例えると、お経はバットですね。ヒットはバット自体がもたらすものでは無い。それを振る打者によって生まれるものです。バットを握り打席に立っても、それで投手の投げる球を打てるわけではない。打者がヒットを打てるかどうかは、その打者がどれだけ練習をしたかということによります」
(神谷)「繰り返しになりますが、信仰心を持ち、毎日、読経をする人にとっては、お経は力になります。しかし、日頃はまったく信じてもいないのに、困った時だけすがろうとしても、何の力にもならないのです。練習をしていない者がいきなり打席に立っったら、ボールにはかすりもしません。お経は生きている人が日々をよく生きるために考え出されたものなのです。あの世の住人には通用しません」
(早坂)「では私のように、信仰心を持たず日々を漫然と暮らす者の前に、ある日突然、悪霊が現れたらどうすればよいのでしょう。お経を唱えるどころか、わずか二百数十文字の般若心経すらも暗記出来ていません。普段は暗唱できるのですが、肝心な時、すなわち恐怖心を覚えた時に唱えようとすると、その途端に出て来なくなります」
(神谷)「憶えやすく、心を込めやすい真言を持てば良いのです。そういう時によく使われるのは九字です。元々が死霊払いのためのものですが、その後、様々な局面で用いられます。わずか九文字ですから忘れることはありません」
(早坂)「それなら私でも出来ます。臨兵闘者皆陳烈在前ですね。陳が陣だったりと、字が若干違うこともありますが、忘れることはありません。これを日々繰り返し練習すれば良いわけですか」
(神谷)「これは本来、『九字を切る』と言い、横縦横縦と十字に手を動かし、刀のように悪霊を斬るための真言です。毎日練習していれば、念を込められるようになります。よく読めば分かりますが、特別な意味はありません。お前なんかやっつけてやるぞと言うのと大差ありません」

■簡単なおまじない
(早坂)「わずか九文字でも、横着者は憶えられないかもしれません。そういう者に何かアドバイスはありませんか」
(神谷)「それなら『武蔵三太夫』はどうでしょうか。武蔵三太夫は中世の坂東武者ですが、この地方に巣くっていた三百匹の鬼を切り殺しました。その武者の名を唱え、刀を以て鬼を袈裟懸けに切るイメージを重ねれば、念を集中させやすいかもしれません。自身が武蔵三太夫になったつもりで、エイヤッと悪霊を打ち倒すのです。もちろん、これはあくまで例えで、文言は自身が信じやすいものなら何でも結構。『悪霊退散』でも大丈夫です。まずは信じることが大切で、次に力を持つのは強い心です。信念を持つことが念の力を呼ぶのです。神官や僧侶が毎日勤行を行うのは、信と念を強固にする意図によります」
(早坂)「鍵となるのは強い心ですね。これもやはり修練が要りそうです。では突然の出来事に咄嗟に対応する場合はどうでしょうか。私はC市を訪れた時に、旧家の土塀に沿って道を歩いたことがあります。長い土塀で数十辰發△辰燭里任垢、その時に霊体験をしました。半ばを過ぎた頃に、不意に悪寒が走りました。土塀の端を曲がった所に人が立っている。そんな気がしたのです。雨の日の夕方で、周囲は真っ暗です。人気の無い寂しい場所でしたので、現実に角を曲がったところに誰かがいるようには思わなかったのですが、しかし、予感があり気配を感じました」
(神谷)「実際にその角に行ったのですね」
(早坂)「ええ。端まで行きました。そこで横目で角の左手を見たのですが、着物の裾と下駄を穿いた白い足が二本見えました。十歳くらいの女の子の足です。私は驚いて、そのまま前方に駆け出し、全速力でその場から逃げたのです。見間違いなどという次元の話ではなく、その足は鮮明に見えました。見えたのは下半身だけで、上半身は果たして存在していたかどうか。その時に感じていたのは、その女の子が自分について来たらどうしようという恐怖心でした。そういう時に、咄嗟に難を避けるにはどうすればよいのでしょうか」
(神谷)「急を要する時の対応なら、柏手を叩くと良いでしょう」
(早坂)「柏手ですか。神社でパンパンと手を叩く、あの柏手ですね」
(神谷)「そうです。はっきりした理由は分かりませんが、幽霊や悪霊はその手の撥音を嫌います。鈴や錫の音も同じで、神社のお守りに鈴が付いていたり、修験者が錫杖を持ったりするのはそういう理由によります。信仰心を持ち、精神を鍛えようとする者には、幽霊・悪霊が寄って来ます。これは非常に煩わしい。錫杖をチリンと鳴らすことで、警告を与えることが出来ます」
(早坂)「私の叔母は旅行でホテルの部屋に案内された時に、必ずパンパンと手を叩いていました。その時の音の感じで、そこに妙なものが棲みついているかどうかが分かるのだそうです。音がくぐもったりしている時は何度も叩き、きれいな音が出るまで続けます」
(神谷)「人によっては、時として理由なく恐怖心を覚えることがあると思いますが、そういう時は柏手を叩くと、そういう恐怖心が薄らぎます。ただし、即効性はありますが、長続きはしませんので、直ちにその場を離れることです。悪縁を避けるには、近寄らないことが一番簡単な対処法です。面白半分に、『スポット』の類に立ち入ってはいけません」