日刊早坂ノボル新聞

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◎『怪談』の背景(続)「磯女」

◎『怪談』の背景(続)

 『怪談』シリーズは、概ね実際に起きた出来事を背景にしている。

 ただ、「物語として括る」ために、実際にはない「落ち」を付けたり、かたちを変えたりしている。

 ショートストーリーとしてのまとまりを得るためだが、このため、あっさりと終わるきらいがあり、当事者が直面した事態に言及できない面がある。

 

「礒女」の周辺 

 私は時々、「死人」に呼ばれることがある。その多くは「助けて」と呼び掛けられる。たまに、私を仲間に引きずり込むために名前を呼ぶ者もいるが、「磯女」はそんな事例だった。

 実際には三浦で起きたことと、小本での出来事のふたつを併せた内容になっている。

 三浦では「カーナビぐるぐる」が始まり、一本道の筈の道路にどうしても行き着けない。町の路地をひたすらぐるぐると回るので、あることを祈願したらすぐに幹線道路に出た。

 だが、その後、私は長い間「何か」に付きまとわれることになった。

 物語的には、「除霊を施して貰い、難から逃れられた」としてあるが、この部分は事実ではない。ちょっとお祓いをして貰ったからと言って、さっといなくなるほどヤワな悪霊はむしろ少数派だ。あの世はそんなに甘くねえぞ。

 お経や祝詞など何の役にも立たないことが普通だ。それで治まるなら、最初からその程度の相手だった、ということ。

 

 小本では、盛岡への道はひとつしかなく(一本道)、その道を走っているのに、理由なく「左折」指示が出た。

 畑の脇道を通り、「直進してください」という指示が出た先に向かうと、そこは堤防で、そのまま進むと海に落ちる。三十㍍先が海なのに、ナビは「直進してください」をヒステリックに連呼した。

 迂回して元の道に戻ろうとすると、「右折してください」「Uターンしてください」。

 「俺は一体どこに立っているのか」と自問してしまうほどだった。

 この世とあの世の境目?

 目の前で起きていることが、現実とは思えない。

 

 磯女は「人を海に引きずり込む」妖怪の一例だが、基本は水死者の幽霊だ。

 何故そうなるのか、どうすれば状況が改善されるのかを書きたいのだが、津波の遺族の心境を察すると、文字に記すのは難しい。実際には、ご供養が必要なのはまさに今この時で、今は海中に攫われた人たちが次々に目覚めていると思う。放置すると悪霊化するが、それを防ぐ手立てを打つには、忌憚なく意見を言える立場の者でないと難しい。

 地元に誰かこういうことが分かる人がいればよいのだが。

 殆どの者は自分が他人に「ちょっとイカレた人」だと思われるのが嫌で何もしない。

 そもそも現状で、あの世を正しく理解している者はほぼいない。

 

 私の車には、お焼香の道具一式が積んであるが、現実にこういうことが起きるので、その都度その場でご供養を施している。

 いつも「あの世 を怖ろしいものと見なすのは誤り」と説くのだが、場合によってはホラー映画よりも怖ろしい事態がある。何が怖ろしいかと言って、いざ障りが始まるとそれには終わりがないことだ。

 取り憑かれた者が死ぬまで続くし、死んだ後も続く。

 小説や映画では、その道の者(宗教者や霊能者)の手によって、悪霊が退治されたり、あるいは逆に、主人公が負け、死んで終りになったりする。だが、実際には「他力による除霊浄霊」は、あくまで「一時凌ぎ」で、当人が変わらずそのままであれば、いずれまた悪霊が戻って来る。必ず後日談があるし、その時には同じことが繰り返されるのだが、怪異譚にそれが書かれることはない。

 また、障りは当人が死んで、それで終わりになるわけではない。死んでも存在自体がなくなるわけではないし、死は単なる通過点に過ぎない。死後、幽霊として目覚めた時にも、その悪霊が付きまとう。そして第二幕が開かれる。

 

 こういうのを作品化すると、「実際に会った出来事(不幸)を自分の商売に利用する」と捉える人がいるので、面倒を避けるために記述を控えることが多い。

 津波以前から、明治三陸津波の話を準備していたが、現実に津波が起きたので、書け上げられずに手元に留めてある。そろそろ良いかとは思うが、今はまだ体が許してくれず、根を詰める仕事は出来ない。

 

注記)再び目から出血し、ほとんど文字が見えない。推敲も校正も出来ないので、表記に不首尾があります。