日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎夢の話 第1K61夜 和風旅館

夢の話 第1K61夜 和風旅館

 九月二十六日の午前二時に観た短い夢です。

 

 我に返ると、俺は玄関の三和土のようなところに立っていた。

 目の前は廊下で、薄らぼんやりと灯りが点いている。

 正面すぐ脇に階段があり、すぐに二階に行けるつくりになっている。

 「あ。ここは」

 あの和風旅館じゃないか。

 俺はまたここに来たのか。

 

 数年前のこと。半年以上に渡り毎日同じ夢を観た。

 夢の世界に降り立つと、そこは広い和風旅館で、座敷が幾つも連なっている。

 人がいる部屋もり、いない部屋もある。

 一度、襖が全部開いていたことがあるが、はるか遠くまで畳の部屋が連なっていた。部屋が何百あるか分からない。

 その中のひと部屋にいると、廊下をずりずりと人の歩く音がする。部屋に人がいる時には、廊下でその音が聞こえると、皆が先を争って逃げた。

 自分たちに近寄って来るのが、縞紬の着物を着た女で、これは酷い悪霊だからだ。

 女に捕まると、頭から食われて、女の一部にされてしまう。

 

 最初はそのことが分からずに、ただ「気配がしたら逃げる」を繰り返していたが、次第に状況が飲み込めて来た。

 その旅館が、実は私の生家をデフォルメしたもので、そこにあるもの総てが、私の記憶の中から拾って来たものばかりだった。

 断片的な記憶を繋ぎ合わせて、その旅館が構築されていたのだった。

 他の者は私が創り出した者ではなく、この場を共有している別の人格だ。その人にとっては、この旅館の見え方は、その人なりの見え方で見えていることも容易に想像出来た。

 「ここは夢の世界ではなく、あの世の一丁目だ」

 それなら、何としてもあの縞紬の女に捕まらぬようにしないと。

 

 こうして半年以上の間、毎夜、旅館の夢を観て、同じように逃げ惑った。いつも二階にいて、襖で仕切られた部屋の間を行き来しているのだが、ある時、ついに一階に降りる階段を見付け、そこを駆け下りた。その時から、その場所の夢を観なくなった。

 

 これが何年か前の話だ。

 しかし、この新しい夢でも俺はまた旅館の入り口に立っていた。

 (既に「自分が夢の世界にいる」という自覚があった。)

 「中には上がりたくないよな」

 だって、ここは「あの世」だもの。

 後ろには入り口の扉がある筈だが、そこを開けたところで、この建物の周囲は漆黒の闇だった。

 かつて、旅館の中を逃げる時に、縁側廊下の外を覗き込んだことがあるが、どこまで行っても闇があるだけだ。

 たぶん、あの闇に落ちると、永遠に落ち続けるのではないかと思う。

 羽柴秀吉は生前に悪行三昧を繰り返したが、死んだ後、幽霊になって出たという話がひとつもない。あれは、あまりにも酷い悪さをしたから、死後、すぐに奈落の闇に落ちたことによる。生まれ替わることも無ければ、悪霊にさえなれぬのだった。

 

 再び我に返る。

 「このところ心の状態が悪いとは思っていたが、またここに戻って来たのか」

 進むも退くもかなわない。

 「とりあえず、この夢から覚めてくれ」

 階段の上の方から、廊下の板を踏みしめる「めり」という小さな音が響く。

 程なく「すりすり」という足音が聞こえる筈だ。

 途方に暮れつつ、ゆっくりと覚醒。

 

 持病を持つ者は、目の前のことで頭が一杯で、中高年期に特有の心のカタルシスは来ない筈だった。

 生き残ることに必死だから、「先の見えぬ不安」を感じる以前の問題だ。「何となく『もう生きていたくない』と感じる」ことが少ない。

 六十台に突然、ぽっくりと自死する人がいるが、これはそれだ。

 だが、持病に苦しむ者でもやはり心のカタルシスはゼロにはならず、私も頻繁に「もう疲れたな」と思うことがある。

 「この先生き続けて何になる?ただ苦しむだけじゃないか」。

 

 しかし、生きるのを止めると、この夢に現れるような和風旅館が待っている。とにかく逃げ惑う日々が待っているのだ。

 そこから解放されるには、今のところ、「闇の中に逃れる」か「縞紬の女と同化合体する」しか選択肢がない。

 まだ、出口が見つかっていないのだ。

 現状では、私はあの悪霊と同化して、今度はひとの魂を捕らえて喰らう側に立つのではないかと思う。

 

 「階段」はこの世に戻るルートだが、もはや私には寿命の終りが来ている。次にはこの世に戻るための階段は見つからぬと思う。

 もしあの旅館の中に入ったら、先に進むしか手がなくなる。

 怖ろしいのは、縞紬の女の悪霊ではなく、「永遠に続く闇」の方だ。あそこは虚無そのもので、一切何もない。暗闇の中を永遠に落ち続けるだけになる。

 

 ちなみに、現状でPCの前に座っていられるのは、ほぼ四十分くらい。

 ちょうどこれを書き、SNSに添付する前の時間になる。この先は一二時間ほど休まねば起きることすらままならない。これでは集中して何かを書き記すことが出来ぬから、本来の原稿には手が付けられない。そしてそれが絶望感の根源だ。

 その反動で「止められぬ怒り」が湧き上がることがあるから、悪霊にはいつでもなれる。

◎連れて行かれたのはあの人の方

連れて行かれたのはあの人の方

 七八年前に入院していた時のことは幾度も記録を残した。時間が経つにつれ、記憶が混濁して行くが、逆に時間が経ったから状況が分かることもある。

 心臓の治療で入院したのだが、私が希望して六人部屋に入れて貰った。母は入院生活のベテランだったが、常々、「個室ではなく、大部屋に入るようにしなさい」と言っていた。

 普通は個室の方が「気兼ねなく過ごせる」と思うわけだが、生活環境として眺めるのは、命に係わらぬ入院の時だ。

 生き死にがかかる時には「大部屋にしろ」と母は言っていた。

 

 何故そうしなくてはならないのかは、この時に分った。

 当初、私は入り口に最も近いベッドに居たが、すぐ隣のベッドの患者がやたら煩かった。夜になると、ぎりぎりと歯ぎしりを始め、これが朝まで続く。寝ぼけてそうしていたのではなく、眠れずに、かつ意図的にそうしていたのだ。

 だが、その部屋の患者は誰も文句を言わなかった。

 そのことも怪訝に思ったのだが、理由はすぐに分かった。

 その患者が「胃の裏の大動脈に60ミリの動脈瘤が出来ている」患者だったからだ。

 大動脈であれば、2、3ミリサイズの動脈瘤が出来ても命に係わる。破裂すれば即死に近い死に方をする。

 その患者は病状を知らされたばかりだったが、現実感が無いらしく、最初の一二日は家族と冗談を言っていた。

 ところが親族に召集が掛かったり、医師の説明が繰り返し行われるなど、緊張度がやたら高い。

 それもその筈で、「何時破裂するか分からず」「手術するにも成功例がかなり低いケース」だったからだ。

 放置すればそれが今日なのか、三日後なのかは分からんがとにかく死ぬし、手術すると術中に死ぬ可能性が高い。

 途端に本人が不安になり、眠れずに「ぎりぎり」と歯ぎしりをしていたという状況だった。

 

 隣のベッドだけに、その患者の家族が来て家族で相談している内容が、丸わかりになった。

 患者は商社マンで、中国に赴任していたこと。五十台だ。

 辺鄙なところに行き、そこで珍味を食べたこと。その珍味は猿の脳味噌だ。あのインディ・ジョーンズで食卓に出たヤツに近い。

 猿料理に直接の関係はないと思うが、その翌日くらいに発病した。

 詳細な検査を受けるために、すぐに帰国してこの病院に来た。

 自分が死にそうになる実感などまるで無いから、心がカタルシスを起こしている。

 数日後に手術をすることになっているが、その前に幾度か説明会があるのと、親族に集まって貰う相談をしていた。

 

 たまたま私の前のベッドの高齢患者が去り、ベッドが空いたので、看護師が気を利かせてそっちにベッドを移してくれた。

 これは、「猿」の患者から少しでも遠ざけてくれようという計らいだ。

 で、そのベッドに移った夜に、私に「お迎え」が来た。

 この辺の経緯は幾度も記したので省略するが、二人組で青黒い顔をしていた。

 この世の者でないのは一瞥で分かる。

 たまたまなのか、まだその時ではなかったのかは知らぬが、私を連れて行けぬことを悟ると、二人組は舌打ちをして部屋から出て行った。

 

 自分のことで精一杯だから、他の患者のことは塵ほども考えていなかったが、ちょうど「猿」の患者の手術と前後していたのではないかと思う。

 向かいの患者は、手術室に去ったが、あの部屋には戻って来なかった。そこは「大手術だから術後はICUに行く」か、「個室に移った」のだろうと思っていた。

 二日後くらいに、運動がてら循環器の入院病棟をひと回りしたが、個室のどこにもその患者の名札が無かった。

 仕方のないことだが、やはりあの患者は亡くなったのだろう。

 

 その付近の病室は循環器病棟の中でも重い方の患者ばかりがいて、外科手術をこれから受けるか、受けた直後の人ばかりだった。

 私の前に向かいのベッドに居た高齢男性も、心筋梗塞脳梗塞を同時に発症した患者だった。

 

 で、最近になり気付いたのは、「あの二人組は、私の代わりに、あの患者を連れて行ったのではないか」ということだ。

 普通、「お迎え」は、一度目に来た時から半年後か一年後にまた来る筈で、二度目には猶予期間の延長は無い。

 その後、かなりの年月が経ったが、あれほどの強力な死神はまだ訪れていない。

 ま、別のヤツは沢山来ている。

 

 改めて、母が「大部屋にしろ」というのは、このことを言っていたのかもしれんと思う。すぐ隣に、その人よりも「死に間際」に立つ者がいれば、そっちを先に連れて行く。

注記)書き殴りであり推敲も校正もしない。不首尾はあると思う。

◎古貨幣迷宮事件簿 「マイクロスコープウォッチング 竜一銭編」

◎古貨幣迷宮事件簿 「マイクロスコープウォッチング 竜一銭編」

 「レーザーでトーン・錆を除去する方法(たぶん還元)」が開発中であることを知ったので、使用されていない青銅貨は梱包して仕舞うことにした。

 いずれ私でない誰かがこの修復処置をして、「未使用」として世に出すことになると思う。

 丁寧で和紙で包まねばならぬのだが、その前に少し観察することにした。

 

 金融機関の金庫から出たロール割青銅貨については、これまで繰り返し記して来たので、説明は省略する。要はバブル崩壊からリーマンショックの間に、地方金融機関の資産の見直しが行われ、金庫の奥に眠っていた銀貨や銅貨が出て来た。

 私が担当した案件ばかりではないので、全体像は忘れたが、三件から五件については記憶に残っている。数量は多かったり少なかったりと様々だ。主に銀貨と、少量の金貨が中核で、銅貨は多くに緑青が出ていた。銅貨の方は、貰うか、付き合い購入したものだ。

 ただ、包みを開けて見ると、ほとんど使われていなかったのは明白で、最初の内は撮影すると、ピカピカの未使用色に写った。青銅貨の場合、傷が無いと、目視した時と違う波長の光をカメラが捉えるらしく、見え方に違いが生じる。

 近代貨コレクターなら知っていそうなものだが、未使用の青銅貨に触れることが無いので、案外知らない人が多かった。ネットに出したら「別の品が来た」とクレームを言われたことがある。この場合、別品に見えるのは、PCと見る側の経験による。見慣れれば、「青銅貨はこういうもの」とごく普通に見える。

 

 さて、今回は「使ってあればすり減っている」というごく当たり前のことを観察するだけの話だ。

 マイクロスコープを使用し、似たような箇所を撮影してみると、A、B(ロール割)とC(流通銭)の違いは歴然で、Cについては「意匠の山が潰れている」ことが歴然だ。

 銀貨では、表面縦横に線条痕が走るのだが、青銅貨は柔らかいので、使用により摩耗が急速に進むことが明らかだ。

 現在、暇潰しに「彫り極印の存在数を推定する」ことを目的に、明治初期の銀貨の文字型の種類分けを試みているが、青銅貨の場合は、「かなり状態が良い品でないと変化を確認出来ない」という問題が生じるようだ。

 マイクロスコープ観察法は、対象によって有効な時とそうでない時があるから、条件を整えることが重要になりそうだ。

 以上はごく当たり前のことだが、実際に確かめてみることで、知見も固いものとなる。大岡越前の考え方に従うと言うこと。

 

 ちなみに、近代プレス貨幣には興味を持ったことが無く、どれをどの状態と評価するのか基準が曖昧だったので、かなり前に古銭会やネットに「ロール割り青銅貨」を出してみたことがある。

 収集家の性癖は「興味があれば、とにかくけなす」ものだと知っていたので、反応を見れば大体はその人の眺め方が分かる。

 だが、興味を持ったコレクターは、「とりあえずけなし、値切る」だけで、知見を提供する人は少ない。一律千円で出したので、中にはかなり得難い品も混じっていた筈だが、それだけだ。

 中に一人だけ、「こういう風に見る」と解説した人がいたので、その人には、状態のもっともよい品を年号別に揃え、無償でプレゼントした。

 なお、「どこからどういう風に出たものか」「仕舞われ方はどうだったか」について質問した人は一人もいなかった。

 時々、古銭家は「手の上の銭しか見ない」と揶揄して来たのはそのためだ。

 背景を知れば違いが分かるし、「この背後に何百枚かを抱えている」ことも分かった筈だ。

 無頓着に分けたので、もはや枚数は残っていないが、この後、いずれ状態の考え方もかなり変わると見なし、残りを仕舞うことにした。

 ま、このジャンルには、状態のグレード区分よりも、もっと楽しいことが隠れているようだ。そういうテーマについて調べるのは私ではないわけだが、いずれ誰かの役には立つ時が来る。

 

注記)一発殴り書きで、推敲や校正をしない。不首尾はあると思う。

◎豚丼のレシピ完成

西関東風 豚丼

豚丼のレシピ完成

 昨日、家人が「豚丼が食べたい」とダンナの前に肉の塊を放り出した。

 ここは正直、「放り出した」という表現が実態に近い。

 「作る」とも「作って」とも言わず、ただ「食べたい」と言うだけ。

 「それは作れってことなのか?」と確認すると、「そう」との返事だ。それなら、最初から「作ってね」と言えば良いのに、よほどダンナに頭を下げるのがいやらしい。

 もちろん、当家では家人が最上位だ。

 

 「ま、いっか」

 レシピで確かめたいことがあったので、豚丼を作ることにした。

 「確かめたいこと」とは、

1)玉ネギを十分に炒めてから、その直後に肉に火を通し、その後煮込む、

2)玉ネギと一緒に豚肉を煮込む、

 の二通りの流れだ。

 ま、最初に半分を1)で作って置き、後で玉ネギと肉を追加し2)に発展させれば、両方を確かめられる。

 

 結論は「1)が正しく、結果的に肉の柔らかさが全然変わる」だった。

 カレーでも、玉ネギを黄金色になるまで炒めて加える方法があるが、当方は「どうせ煮込むのだから一緒だ」と思っていた。かたちが無くなるまで煮込めば同じゃないか。

 実際、炒め玉ネギをカレー鍋に入れたら、出来は変わりない。

 だが、「炒め玉ネギ」の使い方は、「玉ネギを炒めた後にすぐに肉を炒める」時だけに効果が生まれる。

 ま、「肉を柔らかくする成分」が直接作用するためだ。鍋で煮込むとその成分が直接肉に当たる割合が減るのかもしれん。

 この「炒め玉ネギ」からの「肉に火を通す」流れを守ると、最終的な柔らかさがまるで変わって来る。ただ鍋に入れた方は豚がカチコチになる。

 

 あとは「湯通ししたキャベツをご飯にしく」のも鉄則だ。豚丼は脂肪が多いので、タレがご飯にしみるまでワンクッションおける。肉質によっては、出汁を潜らせてからっキャベツを絞る。

 (沖縄など南の島国の人はその豚の脂がよいと言うかも。)

 ソース(汁)のレシピの方は、

 「カツオ+醤油出汁を作って置く」、

 「十勝豚丼よりも少し甘さを押さえる」(北国ではエネルギーを必要とするが、本州以南の県民はそこまでエネルギーが必要ではない。)、

 「野菜出汁やコンソメをごく少量加える」

 隠しには「蜂蜜を前に立たぬくらい少量入れる」みたいな決まりがある。

 スパイスについては、独自レシピなので教えられない。

 

 西関東の「ソースかつ丼」と「十勝豚丼」を足したような味にすれば美味しいだろうと考え、数年ほど研究して来たが、もう完成した。これなら、肉はくず肉で可(柔らかく作れる)。

 輸入豚肉でも大丈夫で、甘味が豚の味を引き出してくれるのだが、豚の産地の極上肉を使えば、立派な郷土料理に仕立てられると思う。

 

 発想の転機はソースかつ丼での「キャベツ敷き」だった。

 肉の厚さにも関係があり、もししゃぶしゃぶで使う時みたいな厚さなら、普通の豚丼(Y野屋風)でよいと思う。少し厚めなら、肉の味そのものが感じられた方がよい。

 

 家人も「完璧な味」との感想だった。

 「自分で作りたい病」患者としては、この豚丼は納得出来る作品だ。

 すぐに家族が食べ終わったので、完成品の画像は無いのだが、並行して作ったやや固くなった方なら残っていた。ま、見栄えは大して変わらぬので、こっちの画像を添付する。

 素人料理は、「見栄えよりも味優先」だと思う。

◎夢の話 第1K60夜 旅行

夢の話 第1K60夜 旅行

 二十四日の午前二時に観た夢です。

 

 夢の舞台は郷里の実家で、かつて個人商店だった頃の店だ。

 新年の売り出しが終わったら、久々に皆で温泉に泊る予定になっていた。

 既に最終日で売り場にはあまり商品が残っていない。

 兄が居残りで、数人の従業員と片づけをしてから、夜に合流する予定だ。

 年末の黒豆の出荷は既に終わっていたから、その疲労が徐々に取れつつある。温泉にでも入れば、すっかり回復すると思う。

 

 母は親戚の車で先に出発している。「私の車に乗る」と言っていたが、私には所用があり、兄とは別に遅れて出発することになっていたから、前の車、たぶん、運転手は従姉のに乗せて貰ったようだ。

 年末の臨時雇いを含め、父は「会費五千円で連れて行く」と希望者を募ったので、そっちはバスで移動する。

 一人当たり数万円は面倒を見る訳で、何百万は持ち出しになるが、父は気前のよいところがあり、人あしらいの呼吸を知っていた。黒豆商売は億の桁なので、利益の中から数百万をねん出するのは難しくない。働く人が多少なりとも嬉しい思いをすれば、次の年にも仕事に精を出してくれる。

 私は家の方に居たが、少し片づけを手伝う気になり、外に出た。駐車場周辺のゴミを拾おうと思ったのだ。

 個人商店だから、駐車場には十数台しか停められぬが、国道沿いなのでフリーの客(通りすがり)が勝手にゴミを捨てて行くことがある。

 すると、駐車場の端に軽トラが止まっているのが見えた。

 蟹の販売車だが、もちろん、当家とは関わりのない業者だ。駅の前とか、路上で店を開く、あれだ。

 荷台を覗くと、「グラム二千円」みたいな経木が何枚か差してあった。

 屋台のオヤジがいたので、試しに「これはいくら位なの?」と聞くと、「大体一万五千円」との答え。

 別に高くも安くもないのだが、どういう経路で仕入れたものかが気になる。

 「小父さん。これはどこの漁港から?まさかかっぱらって来たヤツじゃないよね」

 「まさか。三陸産だよ」

 え。三陸のたらば蟹だって?怪しい話だ。

 「大丈夫だろうね」

 ここでトラブルが起きれば、フリーの客なんかは店に文句を言いに来る。関係者だと思い込むからだ。

 私の気配を見て、オヤジも何か悟ったらしい。

 「あんた。店の人?」

 「もう営業が終わるから、細かいことは言わんけど、きちんとしてね」

 盗品を売ったり、客を騙したりするなよな。

 ここで、私はその場を離れ、家の裏手の駐車場の方に行き、自分の車を前に回した。

 「俺もそろそろ出発しなくちゃな」

 で、我に返る。

 「で、どこに行けばいいんだろ」

 私は行き先を知らなかった。

 記憶を辿ると、たぶん、従姉が母らと一緒に行ったし、叔父たちは別路線組。雇った人たちはバスに乗った。

 私は当然、母の後を追うことになる。

 この時、パッと頭に浮かんだことがある。

 「母や従姉はもう亡くなっているよな」

 頭がぼんやりして、よくものを考えることが出来ない。

 私はその場に佇んで、自分がどうすべきかを思案した。

 ここで覚醒。

 

 夢では、自分の出発が「そろそろ」だと思っているから、今の状況に沿っている。

 

 十一月から十二月は、普段の営業や年末年始の売り出しの他に黒豆の商売があったから、本当にキツかった。

 毎日、学校から帰ると、黒豆の積み下ろしを十時過ぎまでやらされた。確か雁食(黒平大豆)で60キロ、青平で40キロの俵だったと思うが、これを一俵ずつトラックに運ぶ。

 当時はキャリアカートなど無く、総て人力だったから、百俵も担ぐと足腰が立たなくなる。

 仕事を終え、風呂に入ると、もはや十一時を過ぎており、それからが自分の勉強時間だった。

 椅子に座った瞬間に、三十秒で机に突っ伏して寝た。

 目が開くのは三時か四時。その後に一時間かよくて二時間くらい勉強したので、全然足りなかった。

 この時期の試験の成績はやっぱりあまり良くなかったが、いつっも「ハンデがきつ過ぎる」と思っていた。

 でも、同時に「百㍍なら二十㍍くらいのハンデをつけられても大したことはない」とも思っていた。

 生きていれば大なり小なりハンデがあるのが当たり前だ。

 いちいち不平を言うより、乗り越えた方が早い。

 時々、小さいことでぎゃあぎゃあ騒ぐ者を見ると(国葬とか)、「きっと人生で辛いことに耐えたことがないのだろうな」と「上から目線」で見られる。

 俵を担いだことも無ければ、牛の命を救うため、ケツに手を突っ込んだこともない。後者はもちろん私もないが、どんなものかは知っている。こんなのは揺さぶりを入れ、圧力を掛けるために意図的に言うことだ。

 「嫌な奴は真実を語る」。物を知らぬ「良い人」よりも、ためになる「嫌なヤツ」であれ。

 今もかなりハンデがあるが、やっぱり自分が作ったようなものなので、文句はない。浴びる程酒を飲んでいた時期がある。 

 何時母の後を追っても不思議ではない状況だが、出来る限り、出発を後らせようと思う。この状態でもやれることは必ずある。

◎霊感のある人とない人の違い (その3)

令和元年七月十五日成田空港にて

霊感のある人とない人の違い (その3)

 まずはこれまでの経緯について。

 ガラス戸に映る景色を写真に撮ると、実際の景色とは別のものが見えることがある。

 景色がぐにゃぐにゃに曲がったり、そこにはいない筈の人影が映ったりする。

 ガラス面など物的環境によって起きるそれと異なるのは、景色の歪みなどが生じるのは、数分から数十分と言った短時間に限られる。それまで普通に目視と同じ景色が見えていたのに、ある時から屋根が曲がり、木々がよじれる。

 そしてその乱れた景色の陰には、人影が佇んでいることがある。

 

 とりわけ人影が分かりよいのは、周囲を見渡しても数十㍍四方に人が一人もいないのに、自分の脇に立っていたりすることだ。それどころか自分の背後から前に手を回して抱き付いていたりする。

 

 ここで、「見えないからいない」「いれば確認出来る」という当たり前の考え方が、どんどん崩れて行く。カメラは人の可視域の少し外側を写すのだが、さらに赤外線カメラを使用すると、より一層、「そこに居ない筈の人影」を捉えやすくなる。(常時ではなく、これはこれでTPOがある。)

 そこで、「人影は幽霊かそれに近い存在だが、日常的には人の知覚し難い条件下にある」という仮説が立てられる。

 見えず聞こえずとも、そこにいるかもしれない。

 

 これを立証して行く手がかりのひとつは、景色、すなわち光の進行が妨げられるケースがある点だ。

 人型が見えずとも、空間が歪んでいれば、その陰に何者かがいるのかもしれぬ。

 

 ここで私は、かつて自分の前に「お迎え」が来た時のことを思い出した。

 ここでは便宜的に「お迎え」という言葉を使うが、要は人をあの世に誘う(連れて行こうとする)存在のことだ。

 私ががこの「お迎え」の二人組を見た時には、まさに肝の縮む思いをしたのだが、よくよく思い出してみると、二人の周囲の景色がガラス面と同じように数十センチほど歪んでいたのだ。

 これははっきりとした「歪み」で見える場合と、煙や霧のように見える場合がある。いずれにせよ、本来の光の進行を妨げる働きをしている。

 

 ガラス映像は、歪みを捉えるのが比較的容易だが、この見え方に慣れると、「目視でも実は同じように見えることがある」と気付く。

 もっとも多いのは、夕方の薄暗がりの中だ。

 誰もいない筈なのに、目の前を、光や人影が横切ったように感じる時がある。

 あの世の存在は赤外線で見え易くなる場合があるわけだが、これはいわゆる熱線で熱と関係している。赤外線に反応しやすくなるには、周囲の気温が下がると格差が生じるという要素があるのかもしれぬ。この点はまだ実証出来ていない。

 いずれにせよ、普段から、より注意深く、目を凝らして見れば、景色の中に隠れている「プレデター」を認識出来るかも知れぬ。

 

 最初の画像は合成イメージで、肉眼ではこんな風に見えるという見本だ。

 ガラスの中の異変を見ているうちに、いつもではないが、次第に肉眼でも識別できるようになって来る。

 煙や霧、もしくは空間の歪みの陰に人影が立っているのだが、極めて朧げなことが多いから、通常は画像を経由しないと目視による認識は困難である。

 

 だが、見慣れると、微妙な景色の違和感を知覚出来るようになる。

 後の画像は、令和元年に成田空港まで家人を送った時のものだ。

 午前四時前に着いたので、まだ空港内は薄暗かった。

 ベンチに座っていると、前方に違和感を覚える。

 何となく、何かがこちらに近づいて来るような気がする。これは心の問題ではなく、見え難いものを断片的だが見ているということだ。

 たまたまカメラ一式を持参していたので、赤外線カメラで撮影した。

 すると、まだかなり遠いのだが、、通路をこっちに向かって歩いて来る二人組が写っている。

 「二人組」には嫌な記憶があるので、少なからず戦慄した。

 

 ガラスの中の「もや」と歪みを見慣れているので、その後ろを見通す練習は充分だ。

 私には、前にスタジアムジャンパーを着た背の高い男と、ジャケット(ブレザー)を来た小柄な男の二人がいるように、これは割とはっきり見える。

 ただ、この当時は自分が見えるので「他の人にも見える筈だ」と思っていたが、実際にはそうではないらしい。

 今思えば、それもその筈で、対象を眺める時の前提(出発点)がそもそも違うのだ。

 これは第六巻や霊能力がどうとかという次元の話ではなく、「見方を知っているか」ということと「蓄積があるか」、すなわち経験を重ねているかどうかの違いでしかない。

 ジャンパーの男は幽霊なのに片手をズボンのポケットに入れている。

 要は、これは視角・視力と注意深さ、それと経験値の違いでしかない。

 

 さて、こういうのは議論して先に進むわけではないから、この辺で止めるが、この先の話が重要だ。

 いつも例えに出す事例だが、「車の構造を理解し、分解したり組み立てたり出来ずとも、運転することは出来る」のだ。

 もし、相手が実際に存在し、しかも「お迎え」のような意図をもって近づいているなら、これが「本物の幽霊かどうか」などを考えている余裕はない。

 その数秒後には、連れて行かれるかも知れぬからだ。

 この場合は、「現実にそこにいる場合のことを想定して、対処策を講じろ」という選択しかない。

 一般人が付け焼刃の除霊と浄霊、あるいは祈祷だのを考える必要がない。普段バットを握らぬ者がいきなりバッターボックスに立ったところで、ヒットを打つことはない。

 

 相手がまるで生きた人間のように存在しているなら、「傍には来ないでくれ」と丁寧に頼むか、「来るな」と命じて近付けぬかのいずれかだ。

 この時の私は二人組の入る方向に向かって指を差し、「見えているからな。それ以上近づくな」と言葉に出して言った。

 きちんと筋を通して対話をするのは、関係がこじれぬうちは、割合と有効なようだ。

 

 現実に身の回りに現れ始めると、どんどん先に進むから、「あまりあの世に興味を持たず知らぬ顔をしていろ」と言われるが、ある意味それも正解だ。

 微小な気配を察知して、所在の確認が出来るようになると、幽霊は大挙してその人の周りに集まるようになるからだ。溺れる幽霊は自分を見てくれる者を掴もうとする。

 

 追記)撮影当時は二人組の周囲にもやもやと人の気配が出ていたのだが、大半は消失した。こういうのは時間の経過と共に変化する。

 ただ、二人の背後に新しく女の姿がある。

 

注記)推敲も校正もしないので誤表記・誤変換があると思う。

 今回画像ディスクにエラーが出ているので、掲示画像が少なくなった。

◎席は空いている

席は空いている

 二年くらい前に、テレビである女優さんのインタビューを観た。番組は何だったか忘れたが、「徹子の部屋」みたいな対談番組だ。

 この女優さんは、有名俳優と結婚し、二児をもうけたが、夫の浮気が原因で離婚した。

 俳優と結婚したのが90年頃で、離婚したのが90年台の末。よって、結婚していたのは七八年だけ。男の子が二人いたが、離婚した時は子どもたちが小学生になるかどうかの年頃だ。

 以来、母子で暮らして来たわけだが、子どもたちが成人・独立したのをきっかけに女優に復帰することにした。

 テレビ番組は、女優に復帰して間もなくの頃のものだった。

 家族のことに話題が及ぶと、米在住の俳優んが帰国した時に息子たちを交え、皆で会う話になった。

 「子どもには父親なので、もっと父子が触れ合う時間があればよいのですが」

 みたいな話を淡々としていた。

 やはり母親一人の子育てだから、かなり大変だった模様だ。

 「家族四人で食事をして・・・」みたいなことを話していたが、自分と元ダンナの関係性についてはさらっと流していた。

 

 だが、言葉にはひとことも出て来ないのだが、「今もダンナの席を空けて待っている」のを、ひしひしと感じた。

 既に離婚してから二十年で、夫婦だった期間よりもずっと長い。

 「別れたくて別れたわけではない」のが丸わかりだ。

 ま、ダンナに愛人が出来て騒動したいきさつは誰でも知っている。

 ダンナが外に女を作り、自分と子どもを置いて出て行ったのに、まだ席を空けて待っていたのか。

 昔話に出て来る展開のようだ。

 それを言葉では塵ほども言わぬところがスゴイ。

 文句は山ほどあるだろうが、それを口に出さず、かといって「また皆で暮らしたい」とも言わず、ただ席を空けて待っているわけだ。

 いやはや、泣ける。(実際に泣きながら観た。)

 

 この人は元々、相手に尽くす性格だったのだろう。

 でも、そういうのを苦手に思う男もいる。

 例え話になるが、「相手が自分のことを常に見ており、ふと顔を少しでも上げると、その相手が自分を見ている」みたいな状況だ。

 思わず「やめて」「そっとしといて」と言いたくなる。

 そういう男性の方の気持ちも分からんでもない。

 「自分は自分で、あなたはあなた」という部分を感じぬと、何とも言えず重くてウザく、息苦しい。

 まるで女性が背中に貼り付く憑依霊のよう。

 

 元夫は、たぶん、そういう気持ちがあったから、妻とはまったく別の猫みたいなタイプに惹かれた。

 (確かに、若い時には「息苦しい」のはダメだった。大人しくて従順なていだと、何だか「勘弁して」と言いたくなる。他人が立ち入ることの出来ぬ自分だけの部分を持ってくれと思っていた。)

 だが、この元夫婦ももう両方が六十過ぎだし、今では許容できる部分が増えている。

 元ダンナが米国からひょっこり戻って来て、「長く留守にしたけど、帰ったから」と、まだ空いている席に静かに座る展開になったら、周囲はさぞ癒されると思う。

 ま、アリエネー話だ。だから寓話や昔話のように聞こえる。

 

 現実に起きそうなケースは少し違う。

 放蕩者の元ダンナが愛人に捨てられ、放り捨てた元妻のところに「ボロボロの状態で転がり込んで来た」という話なら、実話で似たようなケースを聞いたことがある。

 やりたい放題にやって、最後に戻るのは、自分が最も苦労を掛けた相手のところだ。その実は最初の妻に依存しており、甘えていたから、酷い仕打ちをした。

 母親には平気で我儘が言えるからだ。

 

 話の筋とはだいぶ違うが、昔話を思い出す。

 「鶴の恩返し」では、女房の鶴は秘密を知られたので、「約束を守って欲しかった」と言い残し、元の世界に帰って行く。

 童話ではこれで終わりだが、元になった複数の話の中にはまだ続きがあるものがある。例えばこう。

 夫は、その後、鶴の女房に初めて会った場所を毎日訪れ、再びあの鶴が姿を現すのを待つ。それからの夫の人生は女房の記憶を辿ることに費やされる。

 そしてそれは、夫の猟師が息絶えるまで続く。

 

 大切なものの大きさに気付くのは、既にそれを失った後のことだ。

 やはり泣けるなあ。