日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎古貨幣迷宮事件簿 「旭日龍二十錢 明治四年銘の文字型」研究ノート

◎古貨幣迷宮事件簿 「旭日龍二十錢 明治四年銘の文字型」研究ノート

 引き続き、明治日本の初期プレス貨幣の文字型を観察する。

 ポイントは、1)彫り極印段階の相違、2)縮小彫り段階での変化や修正による相違、3)極印使用による摩耗・劣化の影響、などについて状況を確認することだ。

 (この他に、完成物コインの劣化による見え方の相違という要素もあるが、これは趣旨から外れる。)

 目で見える変化について、見えた通りに記述するのが原則で、観察を進めるうちに、要因や特徴を整理して行く。

 この貨幣種・年号については、手元に残していたのが五枚しか無く、「変化を確認出来る可能性は低い」と見ていたが、割と幾つか見えている。

 ま、中には「極印むら」のようなものもあるわけだが、個々についてその場で判断すると方向性を誤る。今は単に記述するに留めることにした。

 まずは全体像を掲示する。

今回使用したサンプル

 次に、変化がみられるものを文字種別に並べてみる。1)~3)の要因のうち、どれが関わっているのかは、現段階でははっきりしない。

 

 

 鋳造貨幣の場合、個別の鋳造時の変化が割と起きやすい。砂型をその都度使用することに由来するわけだが、打製の場合は、陰刻極印を叩く手法から、一度極印が劣化すれば、そこで取り換えられることになる。

 図8などは極印むらが疑われるわけだが、同じものがどれくらい残っているか、ということが鍵になりそうだ。

 

 プレス貨幣創始期には、不首尾が多く発生したはずで、少数サンプルの観察でも幾つか気になる箇所が見つかっている。

 やはり、このジャンルの先には課題が多く、先の明るい研究分野であろうことは疑いない。

 ここはきちんと手順を踏んで研究すれば、興味を持つ人が格段に増えると思う。

 

注記)いつも通り一発殴り書きで、推敲や校正をしない。不首尾はあると思う。

◎夢の話 第1K59夜 「母死す」

夢の話 第1K59夜 「母死す」

 二十三日の午前三時に観た夢です。

 

 「プルルルル」と電話が鳴る。

 受話器を取ると、電話を掛けて来たのは兄だった。

 「お袋が亡くなったから」

 「そうか。よく頑張ったな」

 母は末期癌で半年入院していた。

 半ばは覚悟していたが、さすがに気落ちする。

 

 「前の時は傍で看守っていられたが、今度は俺がこの調子だから」

 前に母が死んだ日には、俺は病院にいた。

 既にひと月前から食事が何ひとつ喉を通らなくなっていたから、いずれその時が来るのは知っていた。

 母は死を迎える日も自分でトイレに立っていたので、それがまさかその日だとは思わなかった。ま、それも数日の違いだったろう。

 今回、俺は病院を出たり入ったりしていたから、移動に耐えられない。

 「俺は葬式にも出られない状態だよ」

 すると兄が答える。

 「ま、今回は無理をしなくていいんじゃね。二回目だし」

 「では、息子をこっちの代表で送るから、墓参りに連れて行ってくれ」

 

 ここでさすがに気付く。

 「これは夢だな。お袋はもう三年前に亡くなっている」

 自分が死ぬ夢は吉夢のことが多いのだが、肉親が二度亡くなるのはどうなんだろ。

 「お袋のことではなかったりするかもしれん」

 ま、かなり近いのは、父よりも俺の方だな。

 また、お迎えが来るのか。夢の中の俺と母は一体の存在だから、もしや予知夢か。

 

 「ああ。もう彼岸じゃないか。それで母のことを気にかけているのだ」

 墓参りに行きたいが、旅の出来る状態ではないからな。

 窓の外を見ると、雨がしとしとと降っていた。

 ここで覚醒。

 

 急に寒くなって来たので、不整脈が始まった。

 睡眠中にどこどこと太鼓を打つので、その都度目を覚まさせられる。

 墓参りには行けぬが、どこぞの寺でお焼香をしようと思う。

◎ガラス窓の中の「あの世」 (「霊感のある人とそうでない人の違い」の続き)

ガラス窓の中の「あの世」 (「霊感のある人とそうでない人の違い」の続き)

 さて、前回の「霊感のある人とそうでない人の違い」の続きだが、ここでは、ガラス窓の中に見える「あの世」の姿について、整理して行こうと思う。

 一つひとつの画像自体はこれまで幾度か公開して来たものばかりだ。

 ただ、単発で眺めるより、系統的に整理した方が事態の把握に役立つ。

 正確な表現をすると、「ガラス窓に映る景色を撮影した時、画像だけに生じる異変」に関するものになる。そしてその中には有用なものもある。

 

事例1)位置とサイズが変わる

 二年前の十一月のこの画像は、もはや幾度となく公開した。

 この日は、ほとんどの画像に大なり小なりの異変が残った。

 繰り返しになるので詳述を避けるが、参拝客の行列のかなり後ろの方から撮影したのに、ガラス窓に映る私の姿は、行列のすぐ隣に立っている。背丈も位置関係とは合わない。

 

事例2)ガラス面だけに人影が映る

 当初は、男性の近くに少女の姿が見えていたので、その付近を拡大すると、男性の頭の後ろに現実にはいない女が映っていた。

 女は半ば男性に同化し、自分の手を男性の手に重ねている。

 世間的には「憑依している」ということだが、恐怖小説やホラー映画と違うのは、だからと言って、直ちに祟りや凶事が降ってきたりはしないことだ。あの世の者は、直接的には心に働き掛ける。

 そのことでこの男性は喜怒哀楽のいずれかを一層強く感じることになる。

 そこでは、人(ここでは男性)が元々、持っている感情と、取り憑いた女が与える感情が同調し共鳴するということが起きる。いわば、感情、心の「同化」が起きている。

 幽霊が人に取り憑いするのは、災いを為すためではなく、自己と相手を同化し、ひとつに合体することを目的としている。

 

事例3)絶対にその場にはいない筈の人影が写る

 「幽霊は人間の可視域の境界線の近くにいる」のを確かめるには、それが見られるような工夫をすればよい。そのひとつの手段が赤外線撮影だ。専用のカメラを使用すると、人間の眼には見えぬ波長の光(この場合は赤色側)を通じて景色を眺めることが出来る。

 そして、時々、この撮影によって、「そこには居ない筈の人影」を捉えることが出来る。

 ただ、これにもTPOがあるようで、いつも可能になるわけではない。当たり前だが、相手が目の前に出てくれぬと、そもそも画像には写らない。

 画像では、遠くの方に、鳥打帽を被るお年寄りと、ベレー帽のご婦人がいるように見えるのだが、この場所は下が灌木だから、人が立つ足場がない。

 次の画像は、普段と同じように、神殿のガラス窓を撮影したものだが、参拝客の男性二人とは別に、着物姿の女性が見える。割と鮮明であり、まるでその場にいた人のようだが、中央の高齢男性の連れは左側のフレームの外にいて洋装である。この画像だけでは状況が見えぬだろうが、着物の女性がいるのは、内門の外側で、ここは階段の上、すなわち空中になる。人間なら空中には立つことが出来ない。

 なお、死んだ後も生前の振る舞いを繰り返す者がいるようで、神殿前で手を合わせている姿が、時々、画像に残る。

 

事例4)「自分に似た姿をした者」が画像の中にいる事例

 この画像は極めて不鮮明で、暫くの間、私はここに映っている者に気付かなかった。

 ただ、私自身に関連するものだから、それと気付く要素が増える。これが他人のことなら、注意深く観察したりはしない。

 例によって、ガラス窓の私自身を撮影したが、右後ろの背景の中にうっすらと人影が見える。

 詳細に観察すると、私と同じような服を着て、私と同じようにカメラを構え、撮影するところだ。そして、この男はサングラスをしている。この時は既に夕方なので、室内の方が明るいからガラス面の映像が上手く写らない状況だ。サングラスをする者は少なく、私のように「ことさらライトの光に弱い」者だけだ。

 何故に私の姿を模倣しているのか。それは、手っ取り早く私と同化同調し、私の死後に自分の中に取り込むためだと思う。

 多くの人は「ドッペルゲンガー」について聞いたことがあると思うが、伝説の中のそれは「死の予兆(前触れ)」を指す者だ。自分にそっくりな者が現れると、その人は程なく死を迎える。そんな言い伝えだ。

 その話と実際のこれは少し違い、これは「人の死を悟り、近づいて来る幽霊」だと思う。よって、これも「お迎え(死神)」の一種だ。

 かなり厄介なのは、生きた人に取り憑くごく普通の幽霊とは違い、お祓いなどの効き目がなく、除霊浄霊が困難なことだ。祈祷師に依頼しても解決しない。

 これを遠ざけるには、自ら「模倣霊」の所在に気付き、「私はお前がそこにいることを知っている。だから私の傍には近づくな」とけん制する他に方法はない。

 間に厳然と境界を引き、警告することで、野球で投手がランナーの盗塁を阻止するのと同じような効果が生まれる。

 目視で見るようになった人はかなり難しいと思うが、画像の中にいる段階なら、まだ止められる。

 現にこの私はまだ生きている。

 「あの世」が関わることについて、私が他者に助言したり警告することはなかったのだが、最初の助言は「周囲に気を配れ。とりわけ、自分とそっくりな者を見付けたら、充分に警戒しろ」ということになる。

 私の場合は、既に本来の寿命自体が終わっているためか、頻繁にこれを見る。

 

事例5)「画像に歪みをもたらす煙」

 画像は神殿前のガラス窓だが、背景の遠近法が崩れており、はるか遠くの外鳥居付近の景色が映っている。灯篭や建物などは、駐車場から先、すなわち五十㍍以上離れた場所のものになる。

 画面を横に光の線が走っているが、この場合は電線だと思う。これは外鳥居と駐車場の間に仮設テントを張り、そこを照らすための照明用だ。何もない時に映る「光の筋」にそっくりだが、よく見ればそれと分かる。

 ガラス面が歪んでいるわけではないのに、景色だけがぐにゃぐにゃにデフォルメされているのは、間に「何か」があるからだ。この場合は「煙(または霧)」で、これは白く見えることもあれば、このケースのように透明で目視出来ぬこともある。

 やや同語反復的だが、通常の景色はガラスに反射させたからと言って、ここまでデフォルメされることはない。

 そして、この「煙(霧)」が「幽界」の本体・本質だ。「あの世(ここでは幽界)」はこの世に重なって存在しているが、目に見えぬことが殆どだ。条件が整った時だけに、その中から幽霊が実体化し、近く出来るようになる。

 幽界の本質は「意識(こころ)」だから、かたちはない。自我・自意識を強く持った時に、人の姿になる。

 画像の中には、断片的な人影があるのだが、それ以前に何とも言えず薄気味悪い。

 これは、人の「こころ」にもたらされる影響だ。

 「何だかここは気持ちが悪い」と感じた場合は、概ねすぐ隣に幽霊がいる。どの程度検知するかはその人のアンテナと経験値の問題だ。

 

事例6)「画像の一部だけに著しい歪み」がある事例

 この画像は、ごく普通の景色の中に部分的に「著しい歪み」があり、その影の中に蠢くものが見えるケースだ。右側の林だけが著しく歪んでいるのだが、その奥に何か蠢くものがある。

 これを見た人の中には、人影の見える人が幾人かいると思うが、それは正解だ。もはや死者の行列で、幽霊が隊列を為して行進しているように見える。数十体が連なるケースもざらにあるが、死んで行き馬を失ったままの幽霊がどれほどいるのかは想像もつかぬ。入り混じっているから、元は男だったのか女だったのかも判別出来ぬ有り様だ。

 私は子どもの頃から「数十万の城者の群れが後ろをついて来る」夢に悩まされているのだが、あながちただの夢とは限らぬようだ。今も時々夢に観るし、今では現実に見る。

 

事例7)「幽霊に抱き付かれる」事例

 既に何千枚かの画像を通じ、「あの世観察」を続けているわけだが、かなり慣れて来たので、遠景で撮影したこの画像でも異常があることを察知できる。

 私がこの時にしくじったのは、前に参拝客の行列がいたので、神殿前の中央に立ってしまったことだ。

 通常、この境内に入る時には、歩く経路を決めている。幽霊の「通り道」のようなコースがあり、これは神殿下までの通路では、通路左側の地上から二㍍くらいの高さで、階段を上がる時に中央に移る。この時には、人も歩く場所だから、うっかりと幽霊の進行を遮ってしまうことがある。

 よく言われていることだが、「神社では参道の中央は神さまの通る道」だと言われるから、参拝客はそのルートを避ける。

 私のような者が、ついうっかりでも禁忌を破ると、その報いは一般よりもかなり重い。

 昨年の十月に、ある神域にうっかりそれと気付かず入り込んだために、次から次へと悪縁(悪霊)がやって来て、これまで心身の不調に苦しめられた。このため、一年で十キロ以上痩せ、今も悪影響が残る。

 さて、この画像だが、私の顔はカメラのすぐ後ろにある筈だが、そこには無く、かなり横にずれている。モニターで見る人ならありそうな話だが、私は写真を撮影する時には、必ずファインダを覗くことにしている。

 よって、髪の毛の薄めのこの男の頭は私のものではない。私の顔はカメラの直後にあるが、三分の二は消失している。腕の位置もおかしいわけだが、カメラを持つ両手の他に背後から前に腕が回り、私の左手首を掴んでいる。別の男のものだ。 

 私は心停止の経験があり、半ば以上はあの世の者の同類だ。このため、画像に残る幽霊の視線は必ず私のことを見ている。今回のどの画像でもそうなっている。

 要は、私が道を塞いだので、腹を立てた男が羽交い絞めにしていた、と言うことだろうと思う。

 この男が現れたのは、この時だけで、他には無いから、一過的なものだったのだろう。

 あの世では、それと知らずに侵しても、言い訳が通用しない。この世では法律の存在を知らなければ、無罪になるか罪が軽くなったりするわけだが、あの世の障りに情状酌量はない。

 

 さて、この後も継続して、あの世との接点を整理して行くが、画像を見ているうちに、「あの世(幽界)」や「あの世の者(幽霊)」がどんな存在か推測がつくようになる。

 今回の二つ目の助言は、「お迎え」の対処法だ。

 詳述は追って行うが、普段は画像だけでしか見ることのない幽霊が目視で見えることがある。

 その中には、人を「あの世に誘う者」、すなわち、「お迎え」が混じっているかもしれぬ。

 見極め方は簡単だ。ひと目見た瞬間に、貴方は「これはこの世の者ではない」と悟る。

 さらに、普通の幽霊とも違う点がある。

 何故なら、その相手は、完全に実体化しており「ごく普通の人間の姿に見える」のにも関わらず、周囲の景色が数十センチくらいぐねぐねと歪んでいるからだ。

 繰り返し、「景色が歪む」事例を取り上げたのは、それをイメージしてもらうためだ。

 この者が目の前に現れたら、「まずは一定の距離を保つ」のを心掛ける必要がある。 

 まずは、とりあえずその場から逃げるという手もある。

 もし間近に対峙してしまったら、怖れず冷静に話をすることだ。

 「自分は貴方がどういう者かを知っている。自分の寿命もある程度心得ている。その上で頼むが、もう少し待っては貰えないでしょうか。その間に覚悟を決め、気持ちを整えます」

 丁寧に頼むと、猶予が与えられることもある。

 「怖れずに丁寧に頼む」のがポイントだ。

 

 私の場合は、「傍に来るな」と怒鳴り、迎えの者を遠ざけたのだが、以後は入れ替わり立ち代わり、酷いのが来る。

 道を歩く時には数メートル後ろを何かがついて来る気配があるし、台所に立つとカウンターの陰にいつも誰かが立っている。

 気の触れた者が語るような内容だが、これは現実の一端だ。多少なりとも、画像が証拠として残っている。常に「迅速に対応する」ことを心掛けているから、これまで生き残って来られたのだ。

 

注記)時間の制約があり長くPCの前に座れない。推敲も校正もしない(出来ない)ので、言葉足らずや不首尾はあると思う。

◎支離滅裂な論理 「国葬は憲法改正に弾みをつける」(姜尚中氏による。9月18日10:01東京スポーツ配信)

支離滅裂な論理 「国葬憲法改正に弾みをつける」(姜尚中氏による。9月18日10:01東京スポーツ配信)

 日曜と言えばサイテーモーニング。代表的コメンテイターは「みんなの青木センセー」とこの姜尚中氏だ。

 放送を観なかったので、詳細な内容検討は差し控えるが、そもそも検討に値する内容ではなさそう。

 以下は記事引用。

 政治学者の姜尚中氏が18日、「サンデーモーニング」(TBS)に出演し、安倍晋三元首相の国葬について言及した。

 姜氏は「個人的に哀悼の意を示すことと国葬は別次元のことだということをまず理解しないといけない」として「『なぜ国葬なのか』ということは、1つの狙いは憲法改正に弾みをつけたいと。安倍さんの宿願は憲法改正でしたから。ただ岸田政権のオウンゴールだと思います。これによってかえって憲法改正は遠のいた」と指摘した。

 その理由について「自民党憲法草案、これは緊急事態条項、あるいは家族条項を見ても今、問題になっている旧統一教会の考え方とかなり似通っている。そうすると国民はやっぱり少しおかしいんじゃないの?と思うパーセンテージが増えているわけで」と話した。 

 続けて「なぜこのオウンゴールをやっているのにそれでも強行するのかっていうのは、岸田さんは宏池会だから。さすがに護憲派なのかなという。つまり、自分が意図しない結果を自分自身でやってしまう。これは歴史的に言うとピエロということですよね。歴史は悪巧みをして意図したことではないことを導き出す場合がある。岸田さんの師匠の古賀さんは喜んでるんじゃないないでしょうか。これで国民は憲法改正はどうもやっぱりおかしいんじゃないかと思う人が増えると見てます」と持論を語った。

(引用ここまで。)

 

 ちょっと何を言ってるのか分かりませんね。論理なし。

 よくこんなのをテレビで言わせたもんだ。

 

 前提となるのが、「自民党国葬憲法改正に弾みをつけたい」?

 自民党改憲草案と旧統一教会の考えが「似ている」?。

 「憶測」や「似ている」という印象論だけで因果関係を唱えられるとはスゴい。

 実証性が何ひとつないところは、あの国流ではある。

 こういうのが風潮になったりするのは、怖ろしいと思う。

 

 「選挙中に銃で撃たれて死んだ政治家」の葬儀を国で取り仕切ることが、「憲法改正に弾みをつけるため」だとするのは、あくまで姜氏個人の考え(妄想)だ。

 統一教会は「反社」で、自民=統一教会だから、と展開する論調も、自分たちが嫌っているごり押し政治と変わりないと思う。四十年前には、嫌いなヤツのことを、何でもかんでも「ファシスト」と呼んだものだ。

 「反社」は警察用語できちんとした定義がある。具体的な犯罪行為を背景に、条件に合致した時に認定される。

 現状で統一教会は「反社」認定はされていない。

 政治家が「色々といわくがある」統一教会を利用したのは、そこに線引きがあったから。要は「便利だった」ということだが、あまり良い選択ではなかったのは確か。

 しかし、一般用語の「反社会的」を使わずに、通常は警察用語と解釈される「反社」を安易に使い、レッテルを貼り付けるのは、あまりよいやり方ではない。

 「元信者の話」といった一面的な切り取り方だけではなく、個々の案件について違法性に関わる事実をきっちり積み上げた後の話だと思う。

 

 プーチンは自分が他国を侵略するのに、「ナチと戦う」というわけの分からない大義を持ち出したが、当方は今の風潮(実は半分以上は見せかけ)は、それと同じもの凄く危ういやり方だと思う。

 ま、国民を分断することには幾らか成功している。

 

 でも、嘘つきはどこまで行っても嘘つきのまま。

 国葬反対の議論には、道の上で殺された政治家を悼む気持ちが微塵も感じられない。

 安倍さんは、選挙の応援演説中に銃で撃たれて死んだ。

 こういう「暴力でかたをつけようとする行為」は、民主主義を冒涜するもので、こういうことが起きるのであれば、「民主主義の危機的局面」が来ていると言える。

 安倍さんは、憲法改正を推進するために亡くなったわけではない。

 こんな当たり前のことが見えぬ人がいることに驚く。

 世論調査の捏造の仕方と言い、今の騒ぎ方は異常だと思う。

 

 ひと言でいうと、姜尚中氏の唱えるような陰謀論は、居酒屋で話す分には暇潰しになるが、メディアを使って公表すべきものではない、ということ。

 そもそも、前提は「感想」に過ぎず、感想で始まっているから、論理が成り立っていない。

 こういうのを見ると、世間で言われている通りに、TBSはもはや半島の走狗なんだなと実感する。

◎霊感のある人とない人の違い

◎霊感のある人とない人の違い

 題名はやや「釣り」気味で、霊感自体は誰にもある。一方、特別な霊能力などというものは存在しておらず、単純に知覚範囲が広いだけだ。視角の場合は、可視波長域が少し広いのだが、近視や遠視を能力と呼ばぬのと同様に、その人の個性のうちだ。

 

 さて、赤外線は人の目視可能な光の波長域の外側にあり、人はこれを見ることが出来ない。もちろん、個体差があり、人によって、幾らか広い人と狭い人がいる。

 カメラの捕捉範囲は、人の眼よりも波長域が広く、目で見えぬものを画像に写すことがある。

 そうなると、最初の手掛かりは、人の可視域よりも少し外にいる筈のものを写す「画像」から得られる。

 最初の画像は、目で見えるのと同じように映った景色になる。

 ごく普通にガラス面に外の景色が映っている。

 これに対し、右側は景色の一部が歪んで見えている。これは画像の中だけで、これを撮影した時に目視した景色には異常がない。これはあくまで画像の中だけに起こる。

 これがなぜ起きるのかを、五年ほど継続して調べて来た。

 次の画像左は、遠近法に歪みが生じるケースになる。

 暖簾もしくは垂れ幕が内門に下がっているのだが、その幕のごく近くにいる人のサイズが、左右で著しく異なっている。

 ちなみに、左の女性の立ち位置は空中にあり、人の立てる場所ではないので、これは生身の人間ではないと考えられる。

 また、今回初めて気付いたが、中央に割と鮮明に顔が出ているようだ。

 

 右の画像では、私の背後の景色が歪んでいるのだが、よく見ると、この歪みの奥に人影らしき黒い影が見える。

 このことに気付いたので、このように画像に歪みが生じるケースには、よりいっそう注意を払って来た。

 

 次も背景の歪みを捉えたものだ。

 神殿に向かってかなり後ろから撮影したので、この場には参拝客の女性二人しかいないことが分かる。なお私の後ろはすぐに下り階段なので、背後に人が立つことが出来ない。

 神殿のガラス面を撮影すると、背景の木々に歪みが生じており、その中に男が立っている。これは割と鮮明で、この男が烏帽子を被っていることも確認出来る。

 神職かあるいは昔の人の装束を身に着けている。

 次の画像(左)は、人影は朧気だが、そこに「何かがいる」と分かるケースだ。

 画像の中に複数個所の歪みがあり、その奥には人影らしき「何か」がいる。

 要は、画像が歪むのは、これを歪ませているはっきりした要因があるからだということになる。

 もちろん、一足飛びに、これを幽霊の仕業などに結び付けるつもりはなく、ひたすら堅実に情報を収集し、整理して行くべきだと思う。

 ここで冒頭の歪み画像を点検すると、朧気だがそれと分かる煙状の「何か」があることが見て取れる。

 私は既に見慣れたので、これは「黒玉」だと思う。「黒玉」は「白い煙玉」とは異なり、霊そのものだ。玉の中には女性がいる。

 白い玉(煙玉)は、世間的には「オーブ」と呼んだりする人もいるようだが、基本的に自然現象だ。湿気や光の関係で画像に残る。ただ、あの世現象が起きる時にも付帯的に生じることもある。あくまで付帯的な現象であって、霊的現象そのものではない。

 

 さて、以上のことは、画像の中だけに生じた異変だ。

 目視で眺める分には、ガラスの中の景色に何も異常が起きていない。

 画像に落とし込んだ時だけに、異変を確認出来る性質のものだ。

 

 さて、ここで表題の「霊感」の話になる。

 画像の歪みと、その奥に見える人影めいたものを見て、「どこかで」見たことがあると思った人が多い筈だ。

 すぐに分かった人も多い筈だが、これは映画の『プレデター』に出て来る透明な宇宙人に似ている。

 要は、人の眼には見えぬが、空間(光)に歪みや気配を生じさせているということだ。

 そして、いわゆる「霊感の強い人」は、この歪みや気配を感じ取る鋭敏さや注意深さを持っている。こういう人は日常的に、視界の中に光が走ったり、影が横切ったりしている筈だ。

 だが、実は同じものを殆どの人が見ている。見ているのだが、それとは知らぬことと、注意深く観察したりしないので、気付いていない。

 霊感の有る無しの違いは僅かで、「注意深く見ること」「疑うこと」と「経験の蓄積」による。

 あれこれ因果を語る者も多いが、その部分は想像や妄想からなっている。これは、当たった外れたという問題とは別だ。目に見える出来事とは関係なく、出発点が想像や妄想ということ。同じものを見て「死んだおじいさん」を語る霊能者も居れば、「この地に昔からいる神」を語る者もいる。「出来事」的な内容はあまり関係が無く、重要なのは反応の方だ。誰に見えるかとは関わりなく、ご供養をして慰めると、同じように悪縁が去ったりする。「因果」についてはどう関わるのかがよく分かっていない。

 

 よって、霊的現象を自分の眼で確認したかったら、画像や目視に関わらず、景色を注意深く観察する習慣を持つことだ。相手側は自分たちが「見られている」と知ると、その途端に寄り付くようになるので、囚われ過ぎるのは禁物だが、距離を置いて付き合う分には、役に立つ面も多い。

 先走りし過ぎると、世間の「スポット」や「事故物件」で聞くようなホラー話の状況が、日常的に身の周りで起きるようになる。これはあまり心地よいものではない。

 「私には霊感がある」「霊能者だ」と自慢げに語る人が多いが、私にはそういう気持ちがまったく分からない。TPOを揃え、自分自身の姿を撮影してみるがよい。

 もし本当に霊感・第六感が強いのなら、十体と言わず多数の幽霊が体に取り憑いている筈だ。

 私は普通人の霊感しか持ち合わせていないのだが、注意して眺めて来たために、既に周り中が幽霊だらけになっている。

 視界の端に常に「プレデター」を見るのは、やはり気分のよいものではない。 

 

追記)「烏帽子姿の男」

 私が自分でも「スゴい」と思うのは、「烏帽子姿の男」だ。

 幽界には生きている人間の何倍かの幽霊がいるのだが、満員電車の状態にならぬのは、基本が「霧のような物質で成り立っている」ことによる。これが人のかたちに実体化するのは、ある限られた局面で、ごく一時的なものだ。

 人は「自分の見えるものしか理解できない」から、ごく一部だけを見て、それだけが「幽霊」だと見なす。

 自分でも「もはやスゴい局面に来ている」と思うのは、「偶然こんなのが撮れました。怖いですね」という次元ではなく、「撮ろうと思って撮っている」ところだ。

 TPOを揃えると、捕捉が可能になるのであれば、あの世を科学的に解明する道が開ける。いずれ自由に出して見せられるようになると思うが、その時まで私が生きているかどうか。

 

 そして、あの世に深く関わり過ぎたことが原因で、私は悪縁(悪霊)になる可能性が高い。死ぬと理性が無くなるから、悪霊化を止められぬと思う。

 ま、稲荷のお札を貼ってあるところには入らない。

 仁義(または協定)みたいなものがあって、双方が立ち入らぬようにすると思う。

◎猫のトラは白衣観音の使いだった

◎猫のトラは白衣観音の使いだった

 物事の持つ意味を同時進行的に理解するのは難しい。移動しながらでは、自分の位置を確認するのが難しいのと同じことだ。

 最近、神社猫のトラのことを頻繁に思い出す。

 出会いから別れまでの日々の思い出を辿っていると、今にして色んなことが理解できる。

 最初にトラと出会ったのは、平成二十五年か六年頃だ。当時の私は心臓病の治療の影響で平地を数十㍍も歩けぬような状態だった。

 「このままでは幾らも持たぬ」と思ったので、車で通えそうな神社やお寺にお参りすることにした。

 そんな中、たまたまトラの神社に入ったのだが、その時、トラは鳥居の近くの樹の下のうろ(窪み)でうずくまっていた。

 トラは私を見ると、すぐさま立ち上がって、私の前に立ち、本殿の入り口まで道案内をしてくれた。私はうまく歩けず遅れがちだったが、トラは途中で立ち止まっては後ろを見て、私が追い付くのを待っていた。

 夕方で既に内門は閉じていたのだが、奉納箱は外に出ている。トラはそこまで案内すると、「務めを果たした」とばかりにそこに座った。

 最初の画像は、その時同行した家人が、その様子を奇異に思い撮影したものだ。

 猫がまるで人間がするように私を先導していたのだ。

 それからトラとの交流が始まった。

 トラは私が来ると、すぐに走り寄って私の傍を離れない。

 そのことが心の支えとなり、頻繁にこの神社に通うようになった。

 そして、心臓の具合は絶望的だったが、「この神社に百回通い、この猫に百回会うまでは生きて居よう」と心に決めた。

 いわゆる「お百度」だ。

 正直、百回参拝するのも無理だと思っていたが、いつしかそれを超えると、知らぬ間に足が動くようになっていた。

 軽い運動にもなっていたのだろう。せっかくの機会だから、神社参拝を継続するものとし、またさらに亡くなった人のご供養のためにお寺にもお参りすることにした。

 翌年からは、一年に百五十回はお寺か神社を訪れるようになった。

 そんな日々の中、ある時、画像の中に女性が映っていることに気が付いた。

 ひとつの例は、小鹿野町の温泉旅館の前で撮影した画像だ。この時には、館内に居る時から、始終、かやかやと囁くような声が聞こえていたから、たぶん、その声の主だと判断した。

 この頃に、ようやくガラスの中に「そこにはいない筈の人影」が映ることがあるのに気が付いた。これに気付いたのは、この旅館の前で撮影したことがきっかけだった。

 そこで、トラの神社に参拝した時にも、神殿前でガラス戸に映る自分自身を撮影することにした。なお神殿に向かって撮影するのは別に不敬な行為ではないので念の為。

 すると、ある一定の条件下では、ガラス面を撮影すると、「そこに見えている景色とは別の景色が映る」ことが分かった。

 煙玉や光、人影など、目視では見えぬものが画像に残るのだ。

 

 そんな人影の中に、「白い着物姿(白衣)の女」も混じっていた。

 この女は、この場にはそぐわぬ姿でいるし、サイズが普通人の背丈よりもはるかに大きいので、たまたま人間が映り込んだだけではないと分かる。

 (なお明らかに「この世の者ではない」ので、撮影した当時は少しビビった。まるでホラー映画に出て来るような状況だ。)

 だが、繰り返し出て来るから、私の傍にいる筈で、その割には何ひとつ不都合な事態が起きぬので、けして私に害をなす存在ではないと分かった。

 平成二十八年頃に、筋膜種に苦しんでいたのを、女の声に導かれて、岩手の御堂観音に立ち寄り、泉の水で治して貰ったことがある。その状況が重なっていたので、一時はこの地の霊ではないかと考え、「御堂さま」と呼んでいたことがある。

 だが、因果や由来をあの世の者が自ら語ったりはしないので、本当のところは分からない。

 さて、ある日帰り温泉施設を訪れた際に、私は老人の幽霊を拾い、その老人(の霊)をお寺に届けることにした。そこで、幾度かその温泉施設に行き、ご供養をしたのだが、その幾度目かの時には、「白衣の女」がはっきりと姿を現した。

 手先の肌色まで鮮明な画像だが、その画像には、さらに私と女を繋ぐチェーン(鎖)が映っていた。

 恐らくは「深い縁がある」ということを示すのだろうから、それまでの経緯を考えると納得するところがある。

 

 この年の四月には、猫のトラがこの世を去った。最後の日のことは今も忘れぬが、トラは私を離すまいと服に爪を立てさえした。他家の飼う猫でもあり、連れ帰るわけには行かなかったが、あのままトラを連れ帰り、最期を見取ればよかったと思う。

 画像の中に「白衣の女」の姿がとりわけ増えたのは、この時期と重なると思う。

 九月の「チェーン」の示唆を最後に「白衣の女」は私の前に姿を見せなくなった。

 

 それから今は三年目だが、今にして気付いたことがある。

 トラが去ると、程なくして「白衣の女」も去ったわけだが、これは「女」とトラが関わりがあったことを示すものではないだろうか。

 トラは初対面の時から、まるで人が人に対するようなしぐさを見せたが、これは背後で「誰か」に指示されたことではなかったのか。

 トラが去る前と後とを比較すると、猫が傍にいた頃には、体調がよく人事も好調だったのに、去った後はあまり体調が優れず、人事でも苦労させられている。

 元が「死に体」だったのだから、もしかすると、「白衣の女」が御堂観音の時と同じように、見えぬところで助けてくれていたのかもしれぬ。

 恩恵恩寵はそれを失った時に「初めて分かる」というが、まさにその通りだ。

 

 それなら、私はここで、また新しい願を立てようと思う。

 この後は白衣観音を信仰し、心と魂の救済を説こうと思う。

 現状のまま、私が死ぬと、すぐさま悪縁となりこの世に祟りを与えるようになると思うのだが、この願を通すなら、そうならずに済むかもしれぬ。

 

 なお、「白衣観音」は「私にとって」という意味だ。「白衣の女」が名を名乗ったことはない。とはいえ、この世ではそれが表すものを具体的な名で示す必要がある。

◎国民はバカじゃない 国葬反対70%の嘘

国民はバカじゃない  国葬反対70%の嘘

 いまだにネットでは「調査」と称して、「国葬反対70%」みたいな嘘数字を出し続けている。

 調査対象を選別した上で、その中で賛成・反対の%を眺めても、結果数値には何の意味もない。

 下に小さく「これは統計調査法に基づくものではありません」と書いてあったりするが、そんなのが免罪符にはならない。

 数値に意味がないなら、それをわざわざ出すのは、「印象操作をしています」と自分で公言するのと同じことだ。

 

 このやり方は主に半島で用いられる方法だ。

 例えば、韓国内に滞在している外国人に対し、「訪れたい国はどこですか?」と訊く。

 現に韓国に来ている客だから、そもそもその国に興味を持っている。そうなると、「韓国」と答える割合が80%くらいまで達してしまう。そこで公表時には「韓国訪問中の外国人に質問した」という情報を落としてしまう。

 結果数値だけを見ると、「世界中の人に聞いたのか」と錯覚する者が出て来る。もちろん、それが狙いで、「韓国スゴイ」を捏造するための意図的な操作だ。

 たぶん、「統計」や「社会調査法」を学んだことのない者がやっている。学んでいれば、「こんなのは邪道にもならない」と思うからだ。

 日本でもメディアの中には、「こいつは調査法を何も知らんのか」と思うのがいるが、なあに半島の息がかかっていそうな媒体だ。

 

 思想信条や信仰、冠婚葬祭に関連した質問をすると、「他の人についてあれこれ言うべきではない」というストッパーが働き、「関わらないように」「無用に敵をつくらぬように」という心理が働く。

 よって、常に40%を超える人が「判断がつかない」「よく分からない」と答える。きちんと対象者を無作為抽出法によって抽出しているなら、はっきりした意見を言う賛成反対の目安は各3割程度になる。何故なら、思想信条は個人の自由だから「口を出さない」のが基本姿勢だからだ。

 

 電話で聞くと、最初の「※※新聞です」という単語で、通話を切る者が多数出るのだが、もちろん、その新聞を快く思わぬ者だ。

 そうすると、「回答拒否」票になり、票数にはカウントされない。中の質問を一問でも答えれば、個別項目について「無回答」で処理する。

 無回答が多かったりすると、調査の信憑性が問われるから、これも落とす調査主もいる。

 ま、「分からない」「無回答」が「1割しかいない」のは、その時点でアリエネー結果だ。

 ともあれ、電話調査では、その調査主(新聞)を快く思っている人が回答者として選ばれる傾向が生まれる。

 よって、その新聞の社説コラムの方向性に沿った回答ばかりを集める結果になる。

 「七割が国葬に反対」などそもそもウソッパチだ。周囲の人に聞いてみるとよい。

 しかしま、メディアやネットの「作られた風潮」に乗せられる人も一定数はいる。

 

 と思っていたが、日本国民はきちんと見ているようだ。

 メディアも野党もとにかく批判する。これが仮に「国葬を止める」という事態になっても、なんやかやと批判すると思う。

 そうしなくては、飯を食いっぱぐれるからだ。

 今や「新聞離れ」のせいで、新聞社経営は火の車だろうし、野党の幾つかは滅亡に瀕している。

 焦りがあるから、ヒステリックに「反対」を叫ぶ。

 この態度について「おかしい」と思う者がかなりいるようだ。メディアでは取り上げぬから、新聞やテレビには「70%」しか出て来ぬわけだが、今はネットがある。

 「偏向報道」を引けば、情報操作、世論誘導に対する批判が山ほど出て来る。

 

 そもそも、「国葬」だろうと「内閣葬」だろうと、「大した違いはない」と思わんのか?当方が国葬の是非を聞かれれば、「別にどちらでもよい」と答える。扱いはどうでもよく、「選挙戦中に凶弾に倒れた政治家に哀悼の意を捧げる」のは必要なことだ。民主主義の根幹を脅かされる事態だったのだから、民主主義を大切に思う人が喪に服するのは当たり前だ。

 葬式は「亡くなった人を評価する場」ではない。

 統一教会との関係がどうのとか、安倍政治がどうのとかも、この葬儀とは別の話だ。

 

 「私は国葬には行きません」と公に口にする者がいるが、モラルセンスを疑う。締め切りまでに返事を出さなければ、自然と「欠席」扱いになるのに、何故にカメラの前で叫ばねばならんのか。

 ネットで「国葬反対」「メディア」「捏造」と検索すれば、メディアの論調とは真逆のコメが山ほど出て来る。

 やはりきちんと見ている者は見ている。

 その証拠に、岸田政権と自民が支持率を下げている一方で、立民あたりは、増えるどころか存亡の危機だ。

 「まずは亡くなられた方を送り、その後で議論すべきは議論する」と何故言えぬのか。

 自分の意見を通すためなら、他人のことを踏みつけても良いと考えるものがやたら多い。それはその者たちが敵として批判する 

「安倍(象徴なので継承なし)」政治と大して変わりはない。

 

 今回つくづく、「国民はバカじゃない」と思った。

(パヨはバカだ。よくあんな数字を表に出せたな。恥ずかしくないのか。それともプロを一人も雇っていないのか。社会学部の学生がリポートで出したら、たぶん「不可」がつく水準だ。こういうのは身内が窘めぬと大恥を搔く。)

 

 ちなみに、今は専らメディアのどこに半島人が棲み付いているかを観察している。手法が半島式なのは、それに関わる者が半島人だからということ。

 あとはどれくらい半島の金が入っているかどうか。

 半島人は隠し事が出来ぬから、半島のネットを検索すると、ぼろぼろとあれこれ白状している。口を開けば嘘しか言わぬのだが、その反面、事実を隠すことも出来ない。

 ハングル変換がうざいが暇潰しにはなる。