日刊早坂ノボル新聞

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◎「この世」と「あの世」の接点 「そこに居ない筈の人影」 その6 救済

 

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◎「この世」と「あの世」の接点 「そこに居ない筈の人影」 その6 救済

 さて、よくよく観察してみると、死後にも一定期間、「自我(自意識)」が残存しており、その紐帯となっているのは、凝り固まった念や感情であるように見える。

 恨み辛み、苦痛や煩悶、欲望が自我・自意識をそのままのかたちで留まらせているわけである。

 逆に、穏やかで安らぎを得た自我・自意識は、速やかに自身を解体し、より小さな要素に分解していく。物体が小さな分子原子のまとまりで出来ているように、霊魂も同じように小さな要素からできている。

 

 時々、「幽界には善霊はいない」と書いているわけだが、「自我を留めている限り、その心中は穏やかではありえない」という意味だ。

 もし魂が安寧を得たのなら、サクサクと次の段階、すなわち真の「霊界」に昇華・寛解してしまうから、善霊は去ってしまう。

 「霊界」の方には自我・自意識はなく、意思も持たない。しいて言えば、全体が「神」に近いわけだが、意思を持たないので、何をするわけでもない。

 「霊」は「零」に同じで、それ自体、存在はするが、他に関わり、働き掛ける性質のものではない。

 重要なことは、「安らぎと平穏」または「愛」が「同じところに留まらず、先に進んでいく」ために必要なアイテムになっているということだ。

 同様に「神と悪魔」あるいは「仏」は、目的でも要因でもなく、パラメーター(媒介変数)だった。

 

 今回の画像で、最初の2枚は、ある温泉施設の前で撮影したものだ。

 これも幾度も検証を加えつつ報告したので、詳細は書かぬが、一枚目はありえない位置に老人の顔が浮かんでいる。内側には椅子スペースがあるのだが、そこに人間の胴体や足は写っていない。顔自体はガラスのすぐ後ろに存在している。

 その次のは、かなり後になってから気付いたが、撮影者の私の顔が消え、肩越しに「帽子を被り丸眼鏡、チョビ髭の男」が見えている。

 肩に手を掛けているから、恐らくこの後、私について来たのだろう。

 老人にせよ、丸眼鏡の男にせよ、誰がついて来ても、必ず繰り返し丁寧にご供養を施すので、程なく消えて行く。今はこの施設を訪れても何ら異状は起きない。

 最初の老人が留まっていたのは専ら「苦痛」による。

 

 ちなみに、「ご供養」はお経を上げたり、祝詞を唱えたりすることではない。

 お焼香をし、その間、あれこれと語り掛けるのが、一般人のするご供養になる。

 ろくに意味を理解していない「呪文」を唱えたところで、相手に通じるわけがないからだ。「開けゴマ」で開く扉はない。

 私の場合は、母や身近な人の人生に関わる思い出を語る。

 

 さて、最後の画像も繰り返し掲示を重ねている。

 当初はこの意味するものがまったく理解できなかったが、今は分かる。

 一月に「防護服の男」が現れたのは、その後に起こる出来事を予告し、警告を発するためだったのだろう。

 この画像を撮影した時点では、まだ横浜にクルーズ船が入港する前だったし、日本人の感染例は国外にいる数人だけだった。

 すぐに気付いて警告すべきだったと思うが、まだこの件が終わったわけではない。

 今後も手を尽くす必要があると思う。

 今、注目しているのは、次の「お報せ」または「警告」だ。

 何かしら「どう切り抜けるか」に繋がる知見が得られるかもしれない。

 予見を信じる者は少ないと思うが、少なくともその幾人かは確実に救われる。

 

 今回、若干、解釈の域に入り込んでしまったが、まずは実証を積み上げることが重要だと思う。

 

 追記)ここでの大発見は「ガラスの継ぎ目で二重映りをしている」という件だ。要するに「物体として存在している」という意味になる。

 幽霊は「精神世界にいる」のではなく、現実に「もの」として存在しているということだ。

 ただ、生きている人の眼に姿が見えにくく、声が聞きにくいだけということ。

 幽霊の本質は「幽界の霧」の中にあると思う。