日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎「お迎え(死神)」考

「お迎え(死神)」考
 ひとの死に間際に、「お迎え(死神)」が訪問する出来事について記す。
 なお、私自身が実際に体験したので、「という説がある」「話がある」という表現ではなく、「そういう出来事がある」という書き方になる。想像や妄想、知識に関するものではない。

 最初に結論を記すが、もしそれが「人の姿をして、それが直接目前に現れた」なら、それはかなりの幸運だ。相手が人間に近い存在なら、話し合いが成り立つからだ。
 私自身の体験については、幾度も記したので、ごく手身近に書く。
・心臓の治療の後、経過があまり良くなく、致死性の不整脈が頻発していた。
・夕食後に、ベッドに座っていたところ、入り口から二人組が入って来た。
・一瞥で「この世の者ではない」と悟ったが、それは二人の周囲の空間(光)が歪んでいたことによる。
・二人は何も言わず、私を捕まえようとしたが、私が「止めろ」と叫んで抵抗すると、そのままドアを開けて帰って行った。
・まだ死ぬべき時ではなかったのか、透明なアクリル板のような壁が私と二人との間にあった。

 この体験の後、「お迎えに会った」人の体験を収集し始めたが、殆ど実例が無い。多くはそのまま亡くなってしまうことによる。
 基本パターンは以下の三つ。  
1)生きた人間と変わらぬ姿をして、目前に現れる。
2)本人の目前ではなく、周りに現れる。
3)人の姿ではなく、普段は起こり得ぬような出来事が当人の周りに起きる。

 私はケース1)だが、私の母の場合はケース2)で、父の前に現れた。
 母の場合は、こんな状況だ(ケース2)。
・母が通院で不在の時に、父が一人で家にいると、玄関から人が入って来た。
・男は若い男で、父に「※※さんはもう私のものですから、そろそろ連れて行きます」と言った。
・半年後に母の癌が再発し、その三か月後に亡くなった。

 父は男が現れた時には、幾らか認知症気味だったので、家族が誰も父の話を信ぜず、父を介護施設に入所させた。
 私が父の話を聞いたのは、既に母の癌が再発した後で、末期に達していた。父が「男に会った」話を聞き、それを時間の経過と共に整理すると、母の病気の進行過程に一致していた。 

 ケース3)は、人の姿をしていない場合だ。
 多くは当人が他の者には見えぬ「光」を見る。既に亡くなっている「親族」や「神に仕える人々」「人影」を見ることがあるが、直接対峙することはなく離れて見るだけ。 

 これら3つのケースのうち、「直接会った」人の中には、その相手に「もう少し待ってくれ」と伝え、了承される場合がある。
 私の遠縁にあたる金太郎さんのケースがこれだ。
・金太郎さんは末期癌で入院していたが、医師から「自宅で過ごしても良い」という許可が出た。最後の帰宅だ。
・家に独りでいると、玄関から見知らぬ男がずかずかと家の中に入って来た。
・男が自分を連れて行こうとするので、金太郎さんは「俺はまだ行けない。一年だけ待ってくれ」と男に言った。
・男は頷くと、家から出て行った。
・金太郎さんは、その話を周囲にしたが、それからちょうど一年後に亡くなった。

 「お迎え」に対峙した人は、臨死体験をした人の中でもかなり少ないらしい。
 患者仲間のガラモンさんは、心臓の大動脈が総て塞がり、心停止を経験したが、その間に「川の手前」に立った。
・川はいわゆる三途の川だが、川幅が十メートルに満たない小川だった。
・川向うには葦が沢山生えている。
・その芦原から、亡くなった叔母が現れ、「まだ来るな。戻れ」と言って、手を振った。
・次に気が付いたら、集中治療室の中で、十日以上昏睡状態にあった。

 臨死体験の中で、「川の前に立つ」「親族(故人)に来るなと言われる」ケースは、割と多く聞く話だ。
 だが、当人とは一定の距離があり、離れた場所にいることと、「迎えに来た」訳ではなく、「戻れ」と逆のことを示した。

 この先は推定だ。確かめることが出来ない。
A)もし眼の前に「お迎え」が立ったら、まずは交渉してみること。この場合、延命の代償として「代わりのものを差し出す」ことになる。客人を手ぶらで返すと何かと不都合がある。
 私の場合は、療養生活に入っていたので、自分の会社を閉めた。
 この後で、幾度か危機が来たが、何となく「間近にあの世の者がいる」と感じたので、その都度、代償を差し出した。
 二度目の危機の時には、「社交」を止めることにした。隠遁生活に入ることで、ほとんど出家と同じ。
 三度目にもあの世の者を身近に感じたので、趣味道楽一切を放棄した。要は「人生を通じ柱にして来たもの」を捨てることが死期を遅らせることへの代償だ。

B)不自然な事態が起きた時には、「それが何かのサイン(兆候や要請)」でないかを疑うこと。父は男が現れ、「連れて行く」と言ったことで、母に愛人がいるのではないかと考えた。だが、母は入退院を繰り返しており、起こり得ぬ事態だった。
 その男が「生きた者ではない」という認識があれば、対処の仕方がまったく異なる。

C)死期が近づくと、「お迎え」以外に、沢山の幽霊が身近に来る。その人の死の匂いをかぎ取り、自分に取り込もうとする意図によるようだ。
 この時、その場にはいない人の声が聞こえたり、人影を見る機会が増える。これは病気の時だけではなく、不慮の事故の前も同じなので、身体に異常がまったく無くとも、急に「幽霊の所在を感じる」時には要注意だ。
 この場合、あの世の者が傍にいることで「死期が早まる」傾向が生じるので、これが現れたら、とにかくあらゆる手立てで「遠ざける」ことが肝要だ。この具体的な手法は、自身の信仰(世界観)に従って、昔から行われている方法でよい。

 ちなみに、私が「父の前に現れた母へのお迎え」について聞いたのは、もはや母の亡くなる数か月前だった。
 慌てて、死霊払いの手立てを繰り出したが、間に合わなかった。その一つが「セージを傍に置く」というものだった。
 (どういうわけかは知らぬが、幽霊はセージの匂いを嫌う。)
 実家の各所に、セージをひと摘みずつ置いたのだが、母が「匂いがきつすぎる」と言って除去させた。私及び普通の人には知覚できぬ量だったので、この時に「もはや間に合わぬ」と悟った。
 この時、母はもはや半ば「あの世の住人」になりかかっていたのだった。

 「死ねば終わり」などという迷信(科学迷信)を信じていたら、お迎えには対処出来ない。まずは自分の目と耳で確かめることから始めるべきだ。自分の持つ常識を疑うことが必要だ。
 二百年前には、多くの人が「地球は平面」だと思っていた。
 (ちなみに、球体でもないかもしれない。固定観念を捨て、自分で確かめる努力を怠らぬこと。)