日刊早坂ノボル新聞

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◎天保年間の盛岡藩

天保年間の盛岡藩
 幕末の南部藩主、南部利済(としただ)は、まさに「運命に弄ばれた人」だ。
 父親の利謹が城下に遊びに出た時に、油商人の妻を気に入り、商人から取り上げて側室にしたが、これが油御前。
 利済はこの油御前の子だ。
 血筋が卑しいので無理やり出家させられていたが、藩主の後継が絶えそうになったので、またもや無理やり還俗させられた。...
 当然、政の素養も無ければ、やる気も無い。嫌々、務めることになる。
 治世は文政八年から嘉永元年までで、その間には、文政、天保の大飢饉を経験している。
 その時、利済がやったことは、窮民策ではもちろんなくて、盛岡城本丸の改修(聖長楼)や、遊郭の建設といった箱モノづくりだった。
 「雇用を増やして民に賃金を払う」というのが建前の事業だったが、七年以上も飢饉が続いたので、財政はさらに逼迫した。
 さらに、利済は「経済振興のために」遊郭を作ったのだが、やはり、どちらかと言えば自身の好みによるもので、実際、藩大奥の女性を元の80人から4倍近くに増やした。
 このため、盛岡藩は財政を潤すために、不換紙幣(七福神札)を発行したり、贋金を作ったりした。
 天保の飢饉下では、餓死者が相当数出たので、一揆が起き、利済は強引に蟄居させられた。
 最初から最後まで、利済は「やらされる」か「やめさせられる」人生で、自らの意思で決められたことは、贅沢と女遊びだけだった。
 この間、経済の破綻により、貧富の差が拡大し、百姓は土地を担保に豪農や豪商から金を借りた。しかし、飢饉が長引き、借金を返せないので、土地は金持ちに移り、百姓の多くが小作人となった。幕末には、郡全体が一軒か二軒の金持ちの所有になるほどで、これに対する反発が維新の原動力に繋がった。
 天保の飢饉の間に、全国で死んだ人の数は125万人だ。餓死者以外の数値も入っているが、普段の何倍かにはなっている。
 東日本の方が被害が大きかったのだが、大阪でも大塩平八郎一揆を起こした。
 
 この時期には役人もまるで食えなくなり、生きて行くために不正を行った。
 賄賂を要求するくらいは当たり前だったが、そうしないと飢えて死ぬ現実があった。
 たまに、幕末を描いた映画で、下級武士が米の飯を食べている場面を見ることがあるが、とんでもない。米が穫れないので、よくて雑穀粥だったろう。
 最初の内、盛岡藩は、不換紙幣(手形)を渡して、穀物を取り上げていたが、すぐに紙幣の信用が無くなったので、藩ぐるみで硬貨(天保銭や鉄銭)の偽造に走った。
 何となく、今の状況に似ていると思う。

 時代小説の目的は、歴史をそのまま模し取ることではなくて、心情を汲み取るところにある。
 そこは歴史の研究者とはまったく違うところだ。